音楽の都は実は失望の都だった...シューマンのもう一つの「謝肉祭」はウィーンのほろ苦い思い出と共に

   先週は、ロマン派の作曲家、ロベルト・シューマンの大規模なピアノ曲「謝肉祭 Op.9」を取り上げましたが、今週は、彼のもう一つの謝肉祭に関連する曲を取り上げましょう。「ウィーンの謝肉祭の道化 Op.26」です。同じくピアノ独奏曲で、「謝肉祭」のような小曲の連続ではなく、5楽章から構成されています。トータルの演奏時間では、この曲のほうが短く、21分ほどとなります。

   Op.9の「謝肉祭」は、観念的な謝肉祭――シューマンの内なるキャラクターであるフロレスタンやオイゼビウス、心を寄せた女性たち、友人の作曲家ショパンやパガニーニといった様々なキャラクターピースが次々に登場する曲全体を一つのカーニバルに見立てたものですが、「ウィーンの謝肉祭の道化」は文字通り、彼がウィーンで見た2月のカーニバルにインスピレーションを受け、その様子を描写しつつ、形式を整えた幻想的ソナタ、とでもいうべき作品です。

冒頭の楽譜『ウィーンの謝肉祭の騒ぎ』とも訳せる題名が『幻想的絵画』という言葉と共に記されている
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悲恋の相手、恩師の娘追い

   北ドイツ、ザクセン地方のツヴィッカウというところで生まれたシューマンは、ザクセンの大都会、ライプツィヒの大学の法学部に進みました。音楽では生計が立てられない、という周囲の配慮によるものでした。結局、音楽への思い断ち難く、ライプツィヒで評判の厳格な教師、フリードリヒ・ヴィークに師事してピアニストを目指しますが、無理な練習がたたって断念...というところまでは先週書きましたが、そのあと、ヴィークの娘、クララと恋仲になります。恩師はもちろん激怒、年齢差もあり、結婚は到底許されない状況になりました。

   シューマンはライプツィヒで修業を続け、ピアニストは断念したものの、作曲を始めたり、音楽評論家として健筆をふるい、音楽雑誌を創刊したりもしていました。しかし、相変わらず恩師ヴィークは、クララとの結婚を許さず、激しく妨害工作をします。一流のピアニストとして育て上げた娘クララを、ピアニストを断念して、まだ作曲家としても無名なシューマンに取られてしまうのが、我慢ならなかったのでしょう。

   そんな中で、シューマンは、音楽の都、ウィーンに移住することを考えます。クララが、ピアニストとしてウィーンデビューをし、評判になっていたこと、ヴィークが「ライプツィヒでは絶対結婚させんぞ!」と言っていたので、ほかの都市でなら...と淡い期待をもったのと、なにより、ベートーヴェンやシューベルトの活躍した街であったからです。

「ラ・マルセイエーズ」が聴こえる部分...に込めた思い

   音楽の都ウィーンでは、シューベルトの兄を訪ねて、そこで、未発表の交響曲――今日「ザ・グレイト」と呼ばれている作品です――を発見するなど、重要な体験もありましたが、結果的に、ウィーンはシューマンにとって失望の都となってしまいました。音楽家としてより、音楽評論家として活動していた当時のシューマンにとって、当時のメッテルニヒ体制の帝都ウィーンは、あまりにも検閲や、言論弾圧が厳しく、新しい音楽雑誌の出版も許可されないなど、活躍の余地がほとんどなかったからです。

   「ウィーンの謝肉祭の道化」は、シューマンが、そろそろドイツに戻ろうか、と考えていた1839年に着手された作品です。ほとんどがウィーンで書かれましたが、最終楽章はライプツィヒに戻ってから完成されたといわれています。それまで、3曲のソナタや「謝肉祭」「クライスレリアーナ」「幻想曲」といった大規模なピアノ作品を既に作りあげていたシューマンにとって、この曲は「ウィーンの風味をまぶした自由な形式のソナタ風作品」となっています。1楽章には当時ウィーンで流行し始めていたワルツが取り入れられていたり、ごく一部分ですが、「ラ・マルセイエーズ」が聴こえる部分があります。なぜウィーンがモチーフの曲に、フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」が、と思いますが、それは、反体制派に人気のあった歌だからで、当局に対するシューマンの皮肉が読み取れます。

   結局、気取っていて、閉鎖的で、また政治的に抑圧的だったウィーンとは、袂を分かったシューマンですが、その滞在経験の中から、彼は、ウィーン風な作風を採り入れた楽しい曲として、もう一つの「謝肉祭」を残したのです。

本田聖嗣

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