長い冬の後はじける喜び、チャイコフスキー「交響曲第4番」

   北の国にとって、冬とはやはり厳しくつらいものです。クラシック音楽が生まれたヨーロッパで北の大国といえば、やはりロシアでしょう。ロシアは欧州中心、とくに音楽先進地域のイタリアから距離があったため、音楽の発展は遅れますが、19世紀半ばごろから、続々と素晴らしい才能を輩出します。

    今日は、ロシアを代表する作曲家、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの代表作の一つ、交響曲第4番をとりあげましょう。彼は交響曲を6曲書いていますが、特に後半の3曲の人気が高く、この第4番もよく演奏されます。彼が37歳の時の作品で、まさに働き盛りのときの作品と言えるでしょう。

悲劇的に始まる第1楽章
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謎の未亡人からの資金援助得て創作活発に

   既に、「ピアノ協奏曲第1番」などを作曲して、作曲家として認められていたチャイコフスキーですが、音楽院の教授職なども忙しく、なかなか大作を仕上げる時間が持てませんでした。ところが突然、36歳の時、謎めいた人物フォン・メック夫人から手紙で資金援助の申し出があります。彼女は鉄道王の未亡人で、チャイコフスキーの才能にほれ込んで、かなりの額を毎年彼に提供することにしたのです。手紙だけのやり取りで、会う必要はない――結局彼らは死ぬまで一度も会うことはありませんでした――という不思議な関係でしたが、とにもかくにも、チャイコフスキーは金銭的余裕を得て、活動が活発になります。

   もともとロシア的なものを音楽に持ち込もうとする「国民楽派」の人たちからは、西欧的すぎるという批判を受けがちだったチャイコフスキーですが、それは、彼が文字通り西ヨーロッパによく足を運んだことにもよります。この曲も、ヴェネツィアで書き上げられ、ヴェネツィアのホテルには、今でもそのことを記した銘板が掲げられています。

苦悩から歓喜へ...交響曲パターンに自身の思いぶつける

   交響曲第4番は、第1楽章冒頭、金管のアンサンブルで悲劇的なハーモニーで始まります。それはあたかもロシアの厳しい冬と、そこに暮らす人々の運命を表すかのようで、1楽章全体として、暗いトーンが支配的です。第2楽章も、オーボエの悲しげな旋律から始まり、終始メランコリーな風情を湛えた楽章です。

   ところが、第3楽章は一転してユーモラスな感じ。弦楽器の弦を、弓を使わないで指ではじく「ピッツィカート」という演奏法だけで演奏するという世にも珍しい楽章なのですが、その軽やかな音で、あたかもイタリアの即興喜劇を見ているような気分にさせます。そして、爆発的な音の洪水から始まる最終第4楽章は、ヴェネツィアのカーニバルに巻き込まれてしまったような熱狂の渦が音楽で描かれます。まるで、ロシアの辛く厳しい冬をさけて、2月とはいえはるかに暖かい日差しのあるヴェネツィアに出てきて謝肉祭に参加したかのような光景です。

   苦悩から歓喜へ...という交響曲のパターンは、ベートーヴェンの第九以来一つの定型になっていましたが、チャイコフスキーにとって交響曲第4番は、フォン・メック夫人の金銭援助を得て、時間的にも経済的にも余裕が出来て、大曲の作曲にとりかかれる、という彼自身の気持ちを正直にぶつけた作品だったのかもしれません。

    イタリアで書き上げたこの作品は、そのフォン・メック夫人に献呈されています。そして、第4楽章について、「この世は悲しいなどと、思わないでください。他人の喜びを、ともに享受してください。素朴な喜びは確かに存在するのです。」という手紙を残しています。実際に彼がヴェネツィアに滞在したのは12月。まだ冬でしたが、チャイコフスキーにとっては、ロシアとは違う喜びがあふれる「プリマヴェーラ(春)」が見えていたのかもしれません。

本田聖嗣

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