極貧、早逝、死後に初演...ロシアの作曲家カリンニコフ「交響曲第1番」を支配する哀愁のメロディー

   今週の日本列島はこの冬一番の寒さとなっています。首都圏にも雪が降り、週明けの月曜日は交通が大きく混乱しました。このような寒いときには寒い国の作曲家の作品が聴きたくなります。今日取り上げるのは、寒い国ロシアの、悲劇の作曲家、ヴァシリー・カリンニコフの代表作、交響曲第1番ト短調です。

    1866年、ロシアのオリョールに警察官の息子として生まれたカリンニコフは、1840年生まれのチャイコフスキーの26歳年下の世代、グラズノフやラフマニノフと同世代でした。チャイコフスキーやロシア5人組の活躍によって、音楽においてヨーロッパの後進国であったロシアにも、教育の伝統が根付き、ロシア音楽が国際的にも認められ盛んになってきた時代でした。しかし、カリンニコフには、生涯ハンデが付いて回ります。それは、ひたすら貧しかった、ということです。

若くして亡くなったカリンニコフの肖像画と写真
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授業料払えず名門音楽院を退学、病気で指揮者を辞職

   首都の名門モスクワ音楽院に進みながら、授業料が払えず、退学になります。そのあと、奨学金を得て、別の学校であるモスクワ演劇協会学校に入り直し、そこで作曲と合わせてファゴットを学び、アルバイトとして、オーケストラでファゴットのみならずヴァイオリンを演奏したり、時にはティンパニまで受け持ちましたが、まだ生活費が足りず、空いている時間には写譜のアルバイトもかけ持ちをしました。

   1892年、幸運なことにロシア音楽界の第1人者となっていたチャイコフスキーに認められ、マールイ小劇場とイタリア歌劇場の指揮者に推薦され、就任したのですが、ラッキーはつづきません。推薦してくれたチャイコフスキーは1893年53歳で急逝、そしてカリンニコフ自身も1890年ごろから体調不良を訴えていたのですが、結核に感染し、指揮者の職を辞して、ロシアでは温暖とされるクリミア半島のヤルタに転居します。もちろん、定収入はなくなり、友人たちの援助で細々暮らします。ただ、時間が出来たので、彼は本格的に本来やりたかった作曲に取り組み、交響曲第1番を1895年に完成させます。

専門業者雇う金なく楽譜の"清書"できず...

   交響曲をチャイコフスキー亡き後のロシア音楽界の重鎮、リムスキー=コルサコフに認めてもらおうと、筆写譜を送りますが、ここでも貧乏が祟ります。専門の筆写業者を雇えなかったため、彼と彼の妻だけでオリジナルから移したため、楽譜にミスが多すぎて、「演奏不能」とされてしまったのです。友人たちの奔走で、1897年にキエフで初演され、そこでは評判となり、作曲者に援助を申し出る人もいたのですが、彼は初演に立ち会うこともなく、1901年にわずか35歳でこの世を去ります。クラシックの作曲家は、モーツアルトやシューベルトなど、早くして亡くなった人たちがいますが、カリンニコフの短い生涯は、ロシアというお国柄もあり、より一層悲劇性を帯びています。

    そして、その悲劇を伝えてくれるかのように、かれの交響曲第1番は、痛切かつ哀愁を帯びたメロディーが支配しています。循環形式、というメロディーが繰り返しあらわれる作曲技法で書かれたこの曲を聴くと、彼の苦しかった生涯と音楽にかける思いが伝わってくるかのようです。生前まったくの無名で、残した作品数も当然少なかったので、決してメジャーな作曲家ではありませんが、人々の心に切々と訴えるこのシンフォニーが1990年代に改めてレコーディングされ、最近では静かなブームを呼んでいます。

本田聖嗣

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