通称「ワルトシュタイン」/愛称「夜明け」...ベートーヴェン中期傑作ピアノソナタ第21番が2つの"別名"を持つ理由
ベートーヴェンはピアノという楽器が発明されて、つぎつぎに改良を加えられていた時に活躍した作曲家です。彼の全32曲あるピアノソナタは、ピアノ作品の金字塔として古今東西のピアニストによって弾かれていますが、前期と中期と後期では、たとえば使われている音域などが違います。最初の頃は小さなピアノしか彼の手元になく、それが、作曲家としても名が売れてくれるに連れ、ピアノ製作者から最新の試作品を提供され、その新しい楽器をつかって作曲した、ということを裏付けてくれます。
今日は、新しくて性能がいいピアノが彼のもとにもたらされた時に、その楽器の性能に喜びを覚えて作曲されたといわれているピアノソナタ、第21番を取り上げます。通称「ワルトシュタイン」という名でよばれています。
ベートヴェンをウィーンに送り音楽史を"変えた"伯爵
フェルディナンド・フォン・ワルトシュタイン=ヴァルテンベルクという人は伯爵で、ベートーヴェンにただならぬ影響を及ぼした人です。ポーランド選帝侯の侍従、ドイツ騎士団の騎士、という立派な肩書もさることながら、ピアノも上手で、音楽的素養があったために、ハイドンやモーツアルトという大音楽家と知り合いであり、その実力を高く評価していたのです。叔母のトゥーン伯爵夫人はグルック、ハイドン、モーツアルトといった「帝国の出身であるがウィーン子ではない」音楽家のウィーンデビューを助けていましたが、ワルトシュタイン伯は、ドイツのボンにいて、地元のオーケストラ団員という境遇に満足していなかった若きベートーヴェンの才能を見抜き、ウィーンに行くことを熱心に勧めたのです。具体的には、彼の雇い主に掛け合ってウィーン行きの許可を取り、モーツアルトに師事するように、とヒントまで与えて送り出してくれたのでした。
ベートーヴェンは何回かモーツアルトにレッスンしてもらいましたが、モーツアルトは若くして亡くなりましたから、長い師弟関係は結べませんでした。しかし、たくさんの才能があふれるウィーンという都会に、ベートーヴェンはすっかり魅せられ、この街で人生の後半の活躍をすることになります。ワルトシュタイン伯の慧眼がなかったら、音楽史は変わっていたかもしれません。
黎明期のピアノの可能性を開拓、難聴のハンデを克服
ベートーヴェンが、難聴の症状が出て悩み、それを乗り越えて新たなる創作の意欲を燃やしていた1804年ごろ、再びワルトシュタイン伯は、ベートーヴェンに贈り物をします。それは、エラールというフランスの製作者の手によるピアノでした。大きく改良されたピアノを手にしたベートーヴェンは、それまでのピアノでは不可能であった連打や、広い音域を活かした曲を書きあげ、ワルトシュタイン伯に献呈します。
それは、ピアノという楽器の黎明期に活躍したベートーヴェンの新しい楽器の性能を引き出してゆく試みであり、新しい音楽の可能性をピアノ音楽にもたらす曲でした。ベートーヴェン自身にとっても、この曲を書きあげた時期を境に、自らの難聴を人前で隠すことがなくなります。耳が聞こえなくても、内なる音楽を作曲し、その作品に絶対の自信を持ち始めたからであり、この時期の作品は「中期の傑作の森」と呼ばれています。
そして、通常「ワルトシュタイン・ソナタ」と呼ばれることの多いこの曲は、最終第3楽章のパッセージが、まばゆい太陽が朝上ってゆく様子にたとえられて、「オーロール(暁の)・ソナタ」とフランスやロシアで呼ばれています。難聴という音楽家にとって致命的な病気を乗り越えたベートーヴェンにとっても、ピアノ音楽にとってもこの曲は「暁」という名がふさわしいといえましょう。
初日の出などを拝み、一年の計画を立てることの多い今の時期に、ぜひ、聞いてみてください。希望とエネルギーがわいてきます。
本田聖嗣