超高齢・人口減少社会で、国民皆保険を守るためになすべきこと
■「医療政策を問いなおす―国民皆保険の将来」(島崎謙治著、ちくま新書)
30代の頃、家族とともに3年ほど、アメリカで暮らしたことがある。初めての海外暮らしだったが、一番、苦労したことは「医療」だった。
日本のように保険証一枚で、どの医療機関でも受診可能なわけではなく、また、料金も医療機関ごとに違っていて、しかも高額だった。自宅に請求書が届くと、少なくとも日本の数倍、ときには10倍を超える医療費にたまげた。
特に、妻が切迫早産のため、3週間の入院の末、次女を産んだときには青ざめた。何と請求総額が300万円を超えたのだ。
あのときほど、日本の「国民皆保険」のありがたみを感じたことはない。「いつでも、どこでも、だれでも」医療が受けられること。日本で暮らしていたときには、気にも留めなかったアタリマエが、いかに素晴らしいことなのかを知った。
それから20年近くが経ち、この世界に誇る国民皆保険も、「超高齢・人口減少社会」という厳しい状況を前にして、大きなチャレンジを受けている。
本書は、厚生労働省で長年、医療行政に従事した後、アカデミアの世界に転じ、内外の医療政策をウォッチしてきた著者が、これからの厳しい時代に、この国民皆保険をどう守っていくかについて、具体的に論じたものだ。
同時に本書は、医療提供体制、医療保険制度、診療報酬など、医療に関する複雑な制度・政策をわかりやすく解説するほか、なぜ日本は社会保険方式なのか(税方式ではないのか)、なぜ被用者保険と国民健康保険の二本建てなのかといった、そもそもの話を平易に説明している。コンパクトながら日本の医療政策の全体像を理解する上でも役に立つ。
国民皆保険の形骸化リスクの最大要因は、人口構造の変容
国民皆保険に対する内外の評価は高い。著者曰く、「(日本において)医療政策をめぐる関係者の対立は激しいが、『国民皆保険の堅持』の一点については広範な支持がある」という。
しかし、今後半世紀以上にわたって続く「超高齢・人口減少社会」という人口構造の変化が、この国民皆保険を危うくする可能性がある。保険財政の面でも、医療提供体制の面でも、必要な資源を確保できず、「国民皆保険の堅持」という旗を掲げたまま、事実上形骸化してしまうことが危惧されるというのだ。
著者によれば、日本の国民皆保険は、1961年に実現し、その後、「右肩上がり」の社会経済の下で成熟し、1973年にほぼその形を整えたという。しかし、今後、日本社会の人口構造、さらにその影響を受けた経済状況が「右肩下がり」になれば、この世界に誇る国民皆保険制度は、1961年以前まで逆行してしまう可能性があると指摘する。
1961年当時の医療を振り返ると、
①公的保険で利用できる医療の範囲が制限されていた(制限診療)。例えば、抗生物質は自由に使えず、サルファ剤→ペニシリンの順で使用し、それでも効かない場合に初めて使用できるなど、治療方法の順番が指定されていた。
②同一の病気による給付期間は3年間に制限されていた。
③国民健康保険の給付率も被用者保険の被扶養者の給付率も5割にとどまっていた(現在は高額療養費制度の効果もあって実質的な給付率は87 %)。
今から見れば、「そんな時代があったのか」という感覚かもしれないが、今後、高齢者の増加による医療・介護費の増加、生産年齢人口の減少に伴う経済の低迷、そして医療・介護従事者の不足などの条件が重なれば、公的保険の給付範囲や給付率の縮減、地域医療や介護の崩壊が進み、国民皆保険とは名ばかりの状態、すなわち1961年当時の状況と変わらない事態になってしまう可能性があるというのだ。
著者は、こうした事態を回避し、現在の国民皆保険を実質的に堅持するためには、近未来の人口構造の変容の影響を正確に把握した上で、日本の医療の実情に即した医療政策を考えるべきと主張する。
担い手(マンパワー)不足への対応が重要課題
人口構造の変容を考えた際に、医療・介護の財政問題と並んで懸念されるのが、担い手(看護師や介護士などのマンパワー)不足である。
2012年段階で医療・福祉就業者は既に労働力人口の約11%を占めているが、今後、要介護者等が急増する中で、2030年には約16%にまで達すると見込まれている。その後も高齢化率は32%(2030年)→36%(2040年)→40%(2060年)と上昇することを考えると、将来的には医療・福祉就業者が労働力人口の2割超という事態も覚悟する必要がある。
近年、労働需給がタイトとなっていることもあって、都市部を中心に担い手不足がクローズアップされているが、今後は、この担い手問題が、医療・介護政策の中心課題となり続けるのだ。
問題解決には、まずは、医療・介護ロボットの導入など医療・介護現場での生産性向上が最優先だが、著者は、看護・介護人材の確保方策として、以下の4つを挙げている。
①新規養成数を増やす
②離職を防ぐ
③潜在看護師(約71万人)や潜在介護福祉士(約53万人)等の活用を図る
④外国人の看護職・介護職の受け入れを図る
著者によれば、①については、今後、若年労働力の需給がさらに逼迫することを考えると、現実的な選択肢ではないという。また、経済界を中心に主張されている④の外国人労働力の積極的受入れも、送り出す側の東南アジア諸国の出生率が低迷しており、中長期的に見ると、多くを期待することはできないとする。
つまりは、①離職を防ぐとともに、②一度、業界を離れた有資格者にカムバックしていただくほかないのだ。そのためには、看護・介護の仕事の魅力を高めるために、キャリアアップへの道筋とそれに応じた抜本的な待遇改善など、現場の実情に即した、本格的な取組みが不可欠となる。
2018年は日本の医療政策の転換点―方向性は共有、問題は実現できるか―
本書で繰り返し述べられているように、2018年は、次期医療計画や医療費適正化計画の策定、国民健康保険の財政運営の見直し(都道府県の責任主体化)の施行、そして、診療報酬と介護報酬の同時改定という節目の年である。著者の言葉を借りれば、ここ数年は日本の国民皆保険の将来に関わる正念場ということになる。
そこで、ポイントとなるのは、①医療機関の機能分化と連携、そして、②地域包括ケアの推進である。
誤解を恐れずにいえば、前述の2018年に実施される各種施策は、いずれもこの2つを実現することを主眼としているといっても過言ではない。そして、この2つの方向性については、医療界のみならず、費用負担を担う経済界にも財政当局にも異論はない。
問題なのは、本当に実現できるのかという点だ。
振り返れば、この2つの課題は、1980年代以降、常に医療行政の課題として意識され、様々な方策が講じられてきた。しかし総じていうと、目覚ましい進展がないまま今に至っている。その背景には、これらの課題が、自由開業医制、私的医療機関中心の医療提供体制、「医療は都道府県、介護は市町村」という行政の役割分担など、歴史的沿革や日本の医療制度の構造から派生した問題であり、ある意味で必然だったからだ。
また、同時に、問題の射程が、医療にとどまらず、介護、福祉、そして、住まい、まちづくりと、範囲が広がり、総合的・一体的な取組みがどんどん難しくなっているという事情もある。
しかし、団塊の世代が後期高齢者となる2015年まで残り10年を切った今日、医療・介護をはじめ限られた社会資源を効率的にフル活用できる体制を地域ごとに構築していくことは至上命題となっている。
そんな危機感を背景に、ここ数年の間に、地域医療構想、地域医療介護総合確保基金、地域医療連携推進法人制度、総合診療専門医、都道府県による国民健康保険の財政運営など、これまでにない様々な政策手段が整えられてきた。今、これらの仕組みを本当に活かせるかどうかが問われている。
本書において、著者が繰り返し指摘しているように、最も政策効果の高い診療報酬を基本ツールとしながらも、こうした新たな政策手段を適切に組み合わせ(ポリシー・ミックス)、総力戦で臨む必要がある。そのためには、これまで医療政策に距離を置いてきた自治体(都道府県や市町村)をはじめ、各セクターが有為な人材を配置するなど、正面から本腰を入れて医療問題に取り組む体制が求められている。
国民皆保険という日本の貴重な財産を、どう引き継いでいくか、そのために関係者が小異を捨て、知恵を絞り、そして、ねばり強く連帯することが大切だと思う。
JOJO(厚生労働省)