フレンチ・バカンスを感じさせるイベールの「寄港地」

   先週の(2015年)7月14日、フランス革命の記念日である国民の祝日を過ぎると、フランスの人々は、バカンスに突入し、続々と普段の居住地を離れバカンスに向かう...というのは、ある程度真実で、ある程度はフィクションです。現代先進国で、1か月以上の長い休みをもらえる勤労者はそうは多くはありません。しかし一方で、日本のお盆休みよりはるかに長い休暇を夏に満喫する、という文化がフランスにあるのも、また真実です。7月15日からの数日間、首都パリを脱出する長い車の列が大渋滞を引き起こす、というのは恒例行事になっています。

   今日は、そんなフランス人のバカンスを感じさせるような楽しい曲、ジャック・イベールの交響組曲「寄港地」です。原題の「エスカール」は立ち寄り場所、経由地という意味があります。3つの楽章からなっていますが、主に地中海の港街を舞台としているので、「寄港地」という和訳があてられたと思われますが、2楽章はチュニジアの港湾都市チュニスから奥地オアシス都市ネフタへの道のり、つまり陸路の行程を描写していますから、必ずしも寄港地だけとは限りません。

イベールの肖像
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海軍で地中海勤務の後、ローマに留学

   フランスは古くから大陸国家としての性格が強く、軍隊も陸軍が圧倒的存在感を示していて、海の上ではお世辞にも褒められた戦績を残していません。近くのライバル、スペインや、イギリスにたびたび海上で圧倒されていました。首都パリも、海からはかなり遠い内陸の都市ですから、蒸気機関が発明されて船や鉄道が運行されるようになるまで、パリの人たちにとって海は遠い存在でした。

   そんな首都パリに、イベールは1890年に生まれています。ちょうどフランスの芸術が大いに盛り上がって、音楽においても、ドビュッシーや、ラヴェルが活躍していました。20世紀に入り、音楽を志したイベールは、パリ国立高等音楽院に入りますが、卒業したその年1914年に、ヨーロッパは第一次世界大戦に突入してしまいました。若きイベールは、海軍に入隊します。主に、地中海方面の艦隊に乗り込みました。北の海ではドイツ帝国と海軍王国イギリスの激戦がありましたが、地中海はそれほどではなく、従軍中も、彼は作曲を続けていました。そして、戦争終結後、パリに戻ったイベールは、当時の一流作曲家の登竜門といわれる「ローマ大賞」に応募し、1919年に見事、大賞に輝きます。この賞は、副賞として、イタリアのローマにある、フランス・アカデミーに滞在して、作曲の勉強ができる、という特典があり、イベールは喜んでイタリアに旅だったようです。ローマ大賞受賞者の先輩であるドビュッシーが、イタリアを気に入らず、そそくさと帰ってきたのとは対照的に、1923年までローマに滞在します。

仮想旅行気分が味わえる楽しい曲

   初演は帰仏後の1924年になりますが、滞在中の1922年に彼が書いたのが交響組曲「寄港地」です。1楽章が「ローマ~パレルモ」(シチリア島の港町)、2楽章がいずれもチュニジアの街「チュニス~ネフタ」、3楽章「バレンシア」(スペインの港町)と楽章ごとに地中海沿岸の都市名がつけられており、音楽で、仮想旅行気分が味わえる楽しい曲となっています。戦時中ではありますが、パリ育ちのイベールにとって、陽光あふれる地中海は、大変魅力的だったようです。彼にとっては、初期の作品なので、当時パリで一番の作曲家とされていたラヴェルの影響がかなり感じられますが、大西洋沿岸バスク地方生まれのラヴェルの作品が、いつもどこかひなびた悲しい感じを匂わせるのに比べて、生粋のパリジャンであるイベールが地中海を描いたこの作品は、屈託がなく、まさにバカンスの地中海、といってもよいような、明るい雰囲気に包まれています。

   イベールは、地中海に近い、ローマを大変に気に入っていたようで、ローマ大賞の受賞者として暮らした後、今度は、彼自身がフランス・アカデミーの館長に就任し、1937年にふたたびローマに着任します。ところが、今度はイタリアが、フランスに宣戦布告したため、1940年には離任せざるを得なくなります。しかし、第二次大戦後、1946年にふたたびアカデミー館長としてローマ入りし、その役職を1960年まで続けました。地中海を愛したパリジャンは、古代地中海に帝国を築いたローマで、数多くのフランスからやってくる「ローマ大賞受賞者」を迎える「寄港地」の役割を果たしていたのかもしれません。

本田聖嗣

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