偶然手にした"カニ百科" 霞が関は新技術に対応可能か
「カニの不思議」(ジュディス・S・ワイス著、長野敬・長野郁訳、青土社)
生き物を語る書籍にはお決まりのパターンがある。
その生物の分類上の位置づけに始まり、生態・繁殖方法などを記し、それら精緻な仕組みが人間の手による環境破壊で危機に晒されていると警告する、といったものだ。
カニについて語る本書も、基本的にそうしたパターンを踏襲する。
一つ違うのは、さらにその生き物と人間社会との関わりを、映画に出てきたキャラクターにまで話を拡げて紹介する点だろう。栄養学的な視点、経済的活動やこれに伴う規制の在り方、加えて(米国に限られてはいるものの)祝祭にまで言及する。
本書はカニ百科とも言うべき奇書だ。
サルを研究するつもりが...「カニ生物学者」に
カニの交尾は、脱皮し身体が柔らかくなったメスの上にオスが覆いかぶさり、メスを外敵から守りつつ行われる。カリブ海のキュラソー島のオカヤドカリの仲間は、高い断崖の上から卵塊をハサミで遠く海に向かって投げ落とす。ジャマイカのとあるカニは植物の葉に溜まった水たまりで幼生期を過ごす...といった調子で、本書はカニの興味深い生態を解説する。
研究を担うのは、多くの「カニ生物学者」だという。著者はそれら研究者に「なぜカニを研究するのか」という風変わりな質問状を送り、本書終盤でその回答を紹介している。サルを研究するつもりが退屈になり足元のカニに興味をそそられた、などといった理由を読むと、一生の仕事は得てして偶然の積み重ねで決まるものと改めて感じる。
「殺虫剤とカニの関係」で感じた法規制の難しさ
評者が特に着目したのは、殺虫剤とカニの関係だ。
人体への影響を軽微にするために、最新の殺虫剤は昆虫の脱皮を阻害するタイプのものとなっているそうだ。なるほど哺乳類には無害かもしれないが、これがカニの脱皮をも阻害するという。泥地を掘り返すカニは水辺の植物の根に酸素を行き渡らせる役割を担っており、その減少は生態系に大きな打撃となるらしい。新たな殺虫剤が新たな環境破壊を生んでいる例と言えよう。
レイチェル・カーソンの名著「沈黙の春」以来、農薬の規制は経済合理性と環境維持の調和を意識して策定されてきているが、仮にこのような副作用をも事前に想定するとすれば、相当な人員での徹底したリサーチが必要となろう。
技術革新は日進月歩で、その変化のスピードは加速する一方だ。規制もそれにつれて機動的に改廃しなければ、国民は安全な形で新技術の恩恵を受けられない。先進諸国と比較して職員数が圧倒的に少ない日本の中央省庁に、そうした規制改変を続ける余力があるだろうか。関係業界と政治の調整に奔走せざるを得ない幹部、国会対応で消耗戦を余儀なくされる若手という霞が関の現況からすると、暗然とさせられる。
"良書"との出会いの機会与えてくれた版元、町の書店
それにしても、米国の女性研究者が大学出版会から出したこのマイナーな本を、よくぞ邦訳したものだ。出版社は青土社。雑誌「現代思想」の版元なだけに、学際的な本を敢えて選んだものだろうか。更に、評者は自宅近くの小さな書店でこの本に出会った。書店主もよくぞ仕入れたものだ。
担当のチェック不足からか文章の乱れが散見されるのは残念だが、こうした中小の版元や書店が、それぞれに目利きをし、薄利でも気張ってくれていることが日本の出版文化に厚みを加えている。猟奇事件の加害者手記で世間を騒がす版元ではなく、こうした知的好奇心を満たす本を出す版元こそを、評者は大いに応援したい。
電子書籍やアマゾンもよいが、こうした偶然の出会いを思うと、やはり町の書店も捨てがたい。いささかアナログに過ぎるだろうか。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)