真の「ウィーンの作曲家」と「音楽に寄す」

   オスマン・トルコに包囲された記憶を持つ都市ウィーンの流行をモーツアルトは「トルコ行進曲」に織り込んだわけですが、音楽の都ウィーンで活躍した古典派の作曲家、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンは、出身地は別の土地でした。ハイドンは、ハンガリーとの国境に近いオーストリア・ローラウ、モーツアルトはドイツ国境に近い同・ザルツブルグ、ベートーヴェンにいたっては、現在はドイツ(当時は選帝侯領)のボンでした。そのためか、彼らは大都市ウィーンを仕事場として考えていても、どこか一方で、素朴な田舎...つまり都市郊外を愛している...という雰囲気が、彼らの曲から感じられることがあります。

   ところが、クラシックにおける「古典派」とされる時代の最後に、正真正銘の「ウィーン生まれの作曲家」が登場します。フランツ・ペーター・シューベルト...実は同姓同名の作曲家がドイツにもいて、出版社も間違って楽譜を送付したりすることがあったのですが、我々が「シューベルト」という時は、ウィーン生まれのシューベルトを指します。

   歌曲をたくさん書いたシューベルトの代表曲「音楽に寄す」が今日の登場曲です。

「音楽に寄す」の楽譜
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「古典派」から「ロマン派」を開拓

   シューベルトは、ウィーンの街の北西のはずれにあるリヒテンタールというところの出身で、ごくわずかな旅に出た以外は、一生、ウィーンで暮らしました。父親が学校教師だったため、数学教師として3年ほど勤務したことはありましたが、音楽への思いが断ち切れず、勤めを辞めます。以降は、彼はいわゆる定職につかず、さらには、住所まで怪しくなります。自分のピアノさえ持っていなかったため、楽器のある友人の家を転々として過ごしたのです。もちろん、音楽教師としてプライベートの生徒を教えたり、友人たちが開いてくれる「シューベルティアーデ」とよばれた音楽会で自作曲を演奏したりという活動はしていましたが......都市ウィーンの中からほとんど出ないで、しかも、自分の家を持たない、というのは、当時のウィーンが、そういった「才能のある芸術家」を生活させていくことのできる余裕があったということを示しています。具体的には、貴族階級に代わって、裕福な市民層が形成されつつあり、彼らが芸術のサポーターとなり、芸術家を金銭的にも、機会を与えるという意味でも、支えることが出来たのです。友人たちは、彼の才能を愛して、いまだ続くハプスブルグ宮廷の副楽長に推薦したこともありますが、宮廷のほうが経費削減で、結局そのポストに誰も雇わなかった...というエピソードが、象徴的です。

   歌曲「音楽に寄す」の詞は、そんなシューベルトを支えた親友の一人、フランツ・フォン・ショーバーという人の作品です。「愛おしい芸術が、私をより良い世界に連れて行ってくれた...愛おしい芸術よ、私はあなたに感謝する」、というようなストレートな表現の短い作品ですが、これは友人たちの、音楽に寄せるというより、シューベルトに寄せる気持ではなかったかと思えます。歌の歌詞の中には、「音楽」という言葉は一言も使われておらず、ただ題名にあるのみで、曲中「私」を慰めてくれるのは「愛おしい芸術・技術」としか書かれていないからです。シューベルトは、この詩に素晴らしい音楽をつけて、彼の代表歌曲となりました。

   シューベルトをもって、クラシック音楽は「古典派」の時代から「ロマン派」の時代に入った、と現在では考えられています。わずか31歳の短い生涯でしたが、彼が音楽の都でひたすら書いた音楽は、音楽史のページをめくってしまったのです。

本田聖嗣

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