最初は、美しくも青くもなかった、ワルツ王の名曲
ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで、父シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」と並んでいつも演奏される名曲が、ワルツ王、ヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」です。この曲は、オーストリアの第2の国歌、と呼ばれるぐらい、人々に愛されています。ニューイヤーコンサートでは、いつも、最初のフレーズをオーケストラが演奏すると、聴衆が「いよっ、待ってました!」とばかりに拍手をし、オーケストラはその拍手でいったん演奏を中断、静かになるのを待ってから、もう一度、最初から演奏し始める...という習慣があります。「ラデツキー行進曲」における聴衆の手拍子と同じように、新年の「お約束」となっています。
それほど、広く知られて、愛されているこの曲ですが、意外なことに、作曲された当初は、まったく注目されませんでした。19世紀後半、ハプスブルグ帝国は、ラデツキー将軍のイタリアでの戦勝などはまれにあったものの、その後は、戦争のたびに連戦連敗でした。もともと軍備拡大より結婚政策に重点を置いた国ですし、近隣諸国がみな「国民国家」となり徴兵制度をとったために、職業軍人に頼るハプスブルグ帝国が弱いのも仕方なかったわけです。特に、テクノロジーを駆使し、「ドイツ統一」を狙う、プロイセンには、こっぴどく負けました。そんな意気消沈するハプスブルグ帝国と首都ウィーンを元気づけようと、ウィーンの男性合唱協会が、シュトラウス2世に合唱曲を依頼したのが、この曲の誕生のきっかけです。
かなり適当に作曲し、管弦楽に編曲後...
シュトラウス2世は、いつものお得意のオーケストラによるワルツではなく、合唱曲だったからでしょうか、かなり適当に作曲したようです。中でも、合唱団員による最初の歌詞がいい加減で、「嘆いてもしょうがない、踊らないと損だ損だ!」というような、元気づけようとしているというより、投げやりなものだったのです。当然、人気も出るはずがなく、シュトラウス本人も、この曲には格別の情熱を傾けて演奏していませんでした。
しかし、合唱曲を、シュトラウスの「本来の編成」である、管弦楽に編曲してから、様子が違ってきました。地元ウィーンでも、万博が開かれていたパリでも、喝采をあびるようになり、それではと、あらためて、歌詞も立派なものに差し替えられたのです。「ドナウはとても青い、たとえようもなく美しく青い、」で始まる現在の有名な歌詞は、この時に作られたものです。
その後は、シュトラウス2世の最高傑作とされたばかりでなく、オーストリアの第2の国歌とまで言われるようになった曲ですから、話には尾ひれがついて、シュトラウスがたまたまアンコールで演奏したら喝采を受けた、とか、シュトラウス夫人が、「この曲は絶対に売れる!」と最初に確信して、夫の旅行カバンにこっそり楽譜を入れておいた・...などさまざまなエピソードがあります。いずれもこの曲の「大化け大ヒット」を盛り上げるための作り話のようです。
20世紀には「オーストリアの魂」に
ただ、こればかりは真実です。もともと戦争が苦手だった、ハプスブルグ帝国、後のオーストリアで、プロイセンに負けたことがきっかけで誕生したこの曲ですが、1939年、ウィーンフィルの、後に「ニューイヤーコンサート」となる(当時は大晦日に開かれていたそうです)「特別演奏会」で演奏され、人々に勇気を与えたのです。
実は、その前年に、オーストリアは、ナチス・ドイツに併合されて国が無くなっていました。ナチスがメンデルスゾーンなど、ユダヤ系作者の芸術作品を禁止したのは有名です。しかし、ルーツがユダヤ人であるシュトラウス一族の曲の演奏を、オーストリアで禁止することはできませんでした。20世紀には、この曲は、すでに「オーストリアの魂」となっていたからです。
その後、戦争真っ最中の1941年に元日に開催日が変更されたニューイヤーコンサートで、現在に至るまで、「美しく青きドナウ」は変わることなく、演奏され続けています。
本田聖嗣