未知の感染症を「適切に恐れる」ために

『「感染症パニック」を防げ!リスク・コミュニケーション入門』(岩田健太郎著、光文社新書)


   「デング熱」、「エボラ出血熱」と、今年は、見慣れぬカタカナの病気がメディアを賑わした。デング熱では2カ月近くもの間、代々木公園等が閉鎖される事態となったし、エボラ出血熱では、発熱した西アフリカからの入国者が隔離され、「日本でも患者発生か?」と徹夜で検査結果を固唾を飲んで待つという大騒ぎとなった。

   幸いにして、現時点で、日本ではこれらの感染症のために死亡した者は確認されていないが、これらの話題が、今年の重大ニュースの一つとなったことは間違いない。

   感染症は、伝染(うつ)り、広がるだけに、「怖さ」を伴う。この「怖さ」がパニックを生み、更に被害を拡大させてしまう。本書は、アメリカでの炭疽菌事件(2001年)、北京でのSARS騒動(2003年)、神戸で発見された新型インフルエンザ症例対応(2009年)といった数々の感染症対策に従事した著者が、無用で有害なパニックを防ぐために、政府や医療機関は、どう行動すればよいかについて、様々な喩(たと)えを用いて、わかりやすく解説したものである。

「感染症パニック」を防げ!
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「感染症パニック」の影響は甚大

   「ワクチン後進国」等と呼ばれ、感染症対応では「ダメダメ」と言われる日本に対し、米国は、1万5千人余のスタッフを擁するCDC(疾病予防管理センター)を中心に、積極果敢な対応で「お手本」とされてきた。しかし、今年は、エボラ出血熱騒動で受難の年となった。

   特に、10月に、エモリー大学病院で、西アフリカから連れ帰った患者(医療従事者)から看護師が二次感染する事態が起こって以降は、米国全土が蜂の巣を突ついたような騒ぎとなった。「西アフリカ諸国からの入国は禁止すべき」、「医療支援から戻った医療従事者は、現地で感染防護措置を採っていたとしても潜伏期間中(21日間)は外出禁止にせよ」等といった「乱暴な」議論が横行。本来、こうした過度なパニック反応を抑える役目を果たすCDCも、「二次感染を防げなかった」ことで、信頼を失い、混乱に歯止めをかけることができなくなってしまった。

   一連の騒動は、オバマ政権への不信を増幅し、中間選挙での民主党の敗北にまで影響したという。現在のところ、米国でのエボラ出血熱の感染者数は4人(死者は1人)にとどまっており、被害の程度を考えると、騒動の大きさが際だっている。もちろん、騒ぎが大きくなった背景には、中間選挙という「政治的要因」もあったのだろうが、「感染症パニック」がもたらすインパクトがいかに大きいかがわかる。

   日本も例外ではない。エボラ出血熱に関しては、これまでのところ、幸いにして患者は未発生だが、先般の3例の疑い症例が明らかになったときの報道ぶりを見ても、万一の時のパニック・リスクは否定できない。仮に、患者発生という事態が生じても、パニックの発生を防ぐには、二次感染拡大の防止徹底とともに、効果的なリスク・コミュニケーション(リスコミ)を実施できるかが鍵となる。

効果的なリスク・コミュニケーションのために

   感染症のリスクに対してパニックを来たしてしまってはいけないし、不感症になってもいけない。感染症について一般市民はほとんど馴染みがないだけに、専門家や政府は、市民に対して、どういうメッセージを発し、「どのくらい恐れろ」というべきかは極めて重要なテーマとなる。

   現時点において、エボラ出血熱の場合、その感染は体液との接触による場合がメインで、咳やくしゃみで感染するインフルエンザ等と比べて、はるかに感染性は低い。その意味で、日本においてその流行は、著者の比喩でいえば、飛行機事故同様、「めったに起きない」と考えられるが、他方、その致死率を考えると、「起きたら大変」なリスクである。つまり、このエボラ出血熱は、日本において「めったに起きないけれど、起きたら大変」な感染症なのだ。リスコミの在り方を考える場合、この「起こりやすさ」と「起こった場合の影響の大きさ」の両者を区別し、分かりやすく伝えることが何より重要だと著者は指摘する。

日本のリスク対応の問題点―アマチュアからの脱却―

   本書では、現在の日本のリスク対応について、様々な課題を挙げている。

「官僚は現状説明をさせると極めて優秀ですが、将来起こりうる未知なる状況の想定になると、とても下手になります。しかし、リスク・マネージメントはすべからく、未来のリスク、新たに起こった現在のリスクに対して行われるので、『過去に起こったこと』の知識だけでは対応が十分にできないのです」

   耳の痛い指摘である。確かに、役人の行動原理は、ルールに則って動くこと。ルールが決まっていない場合、あるいは、従来のルールでは対応できない事態に遭遇した場合には、適切な対応を迅速に実行することが難しい。

・「俺たちは間違っていなかった」の無謬主義からの脱却
・「分かったふりをしない」、「無知の知の自覚」

などの指摘は至言である。非常時こそ、既存の意思決定スタイルにとらわれない柔軟な対応が不可欠であろう。

   また、日本のリスコミそのものの不十分さへの指摘も多い。

「(日本のリスコミは)情報を呑み込んで、そのまま吐き出しているだけなんです。咀嚼して、消化して、自分のものにして、自分の言葉に換えたメッセージになっていないんです」

   その結果、人の心に届かず、リスコミの最大の目的である「人を動かす」ことにつながらないのだと指摘する。

   「一所懸命やりました」で留まっている(満足してしまっている)こともアマチュアだという。例えば、医療機関が、感染対策のためにチームを設置したり、会議を開催したり、研修を実施する。こうした個々の対策を実施したことで満足してしまい、本来の目的である感染症を減らした、パニックを防いだといった「結果(アウトカム)」へのこだわりが乏しく、まるで「結果」が出ていない、あるいは「結果」を求めてすらいないという批判である。

   要は、リスコミにせよ、リスク・マネージメントにせよ、本来の目的を自覚して、それを実現することを目標に、プロとして実施すべきとの指摘である。本書では、こうした現状への危機感から、どうすれば、必要な情報が、適切に、情報の受け手である国民に伝わり、実際に動かすことができるようになるかについて、数々の具体例を挙げて、繰り返し説明している。

メディア対応が最大の課題―事前に付き合い方を決めておく―

   ソーシャルメディアが広がっているとはいえ、リスコミを考える上で、依然、マスメディアの果たす役割は最も大きい。したがって、マスメディア対応がリスコミの成否を分けるといっても過言ではない(特に失敗する場合)。

   著者が指摘するように、マスメディアは、情報の出し手が発信した通りに報道するとは限らない。むしろ、聞き手を面白がらせたり、脅かしたりすることを意図して、「煽る」行為すら行うことがある。エンターテイメント性が目的化し、「視聴率を伸ばしたり、発行部数を上げること『そのもの』が、リスク・コミュニケーションの本来の目的=リスク・マネージメントに優先され」る場合があるのだ。

   加えて、こうした性向が、感染を疑われた患者やその家族のプライバシーを危うくする危険性もある。マスメディア側の「知りたい」、「伝えたい」という思いと、どう折り合いを付けていくかが情報発信側には求められている。

   本書では、記者会見への対応についても、多くのページが割かれている。

「記者会見はタフな営為です。緊張しますし、相手のフラストレーションや怒りとも対峙しなければなりません。大勢の記者たちに「お前が悪い」という目で睨まれながら質疑を行うのは、そうとうの精神的なタフさを必要とします」
「記者会見の前は十分に睡眠をとり、食事をとり、水分をとっておく必要があります(トイレにも行っておきましょう)。こういうときに限って、不眠不休で対応してしまいがちですが、記者会見でもっとも重要なのは、クリアな頭脳と持久力なんです。睡眠不足はその両方を奪ってしまいます」

   感染症対策上、マスメディア対応は、政府にとっても、医療機関にとっても、最もエネルギーを要するものだ。メディア対応に忙殺されるあまりに、本来の感染症対策が後手に回るといった本末転倒な事態は避けなくてはならない。

   著者が指摘するように「(あらかじめ)メディアとのつき合い方を決めておくのも、タイム・マネジメント上、非常に大事なポイント」となる。万一の時への備えが何より重要なのだ。

厚生労働省(課長級)JOJO

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