霞ヶ関官僚が読む本
国難の中で産まれた日本の民主主義 現代にどう至っているのか

   日本の民主主義はどういうところから始まって、それが現代に到っているのか。そういったテーマに関して、日本近代史の書籍2点を御紹介したい。

   幕末維新の政局は、ある意味、複雑で難しく見える。幕末に対峙することになった旧幕と長州。前者は、マシュー・ペリーの来航までは鎖国が祖法だったはずなのに、列強との交渉の後、安政条約で開国を進めようとした。他方、長州は、攘夷の実行を幕府に迫っていたが、幕府が倒れ、明治新政府を形成したら、今度は攘夷どころか西洋文化を移入する文明開化を進めてしまう。薩摩も分かりにくい。安政条約を結んだ幕府を会津と共に支持し、文久改革の当時は藩内の攘夷派を寺田屋事件で粛清したかと思うと、生麦事件の後は攘夷に奔り、薩英戦争を起こす。その後は、攘夷は放棄してしまい、京から逐ったはずの長州と同盟して旧幕軍を倒し、維新を迎える。開国と攘夷という対立軸を前提に考えると、旧幕も薩長も、あっちに行ったりこっちに行ったりしているようにさえ見えてしまう。当事者の意識は一体どうなっていたのか。

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西郷隆盛の「尊王」は「公議興論」を打ち立てること


日本近代史

   坂野潤治『日本近代史』(平成24年、ちくま新書)は、維新を進めた勢力の中で特に西郷隆盛に焦点を当てて、「たかが250年来の『国是』にすぎない」鎖国の是非を問う「開国」か「攘夷」かの議論は、彼の意識の中では一貫して棚上げにされていたと説く。西郷にとって、より重要な対立軸は、「佐幕」か「尊王」かだったというのである。西郷が進めた「尊王」とは何か。これは、勿論、天皇を専制君主として仰ごうということではない。坂野氏は、西郷の書簡や彼が進めた薩土盟約を引用しつつ、西郷の「尊王」とは、幕府の専制を打倒し、「公議輿論」を打ち立てるという意味だったと説明している。専制を排し、「上公卿ヨリ下陪臣庶民ニ至ル迄」選挙によって国政を議することにしようというのである。幕府の専権に替わるものとして、陪臣庶民に至る階級の結集を打ち出したのだ。

五箇条御誓文「万機公論」に結実、立憲政治に昇華


維新の構想と展開

   鈴木淳『維新の構想と展開』(平成14年、講談社)は、この「公議輿論」の思想が、維新政府の方針として、五箇条御誓文(慶応4年)の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」の条などに結実したと説明する。そして、御誓文の「万機公論」は、維新政府自身にとってのスローガンにとどまらず、これに対抗した自由民権運動の方でも立憲政体を求める旗印になったという。そして、御誓文自体は、立憲政治の成立という形で昇華され、その後は顧みられることが少なくなったが、明治憲法の権威が揺らいだ戦後社会の出発点においては、「新日本建設に関する詔書」(昭和21年)で、この御誓文が引用され、その構想として再度掲げられたと述べている。

   日本の民主主義の端緒が、このように幕末の切迫した時代に産まれたのはどうしてなのか。それは、国が困難を乗り越えようというときには、民意の裏付けがあってこそその総力を結集させることができるということに多くの人々が気づいたからなのだろう。それが国是として王政復古に際して結実したのが「万機公論」だった。

政党政治、普通選挙が実現した直後に「崩壊の時代」

   ただ、民主主義の成長の過程は、その後円滑に進み続けたわけではない。鈴木淳氏の著作は、明治憲法発布に到る過程と発布当日の儀式の詳細を述べて興味深いが、そこではまた、伊藤博文らが、新しく設けられる議会が国政に直結しないように行政府側に議会に対抗できる態勢を構築することに腐心する姿が描かれている。坂野潤治氏の著作は、大正デモクラシーを、デモクラシーが実現した時代というよりは、デモクラシーへの運動の時代であるとしている。政党政治と普通選挙が実現したのはまさにその時代の終わり、大正14年のことだった。そのふたつが実現した後やってきたのは、しかし、同氏の述べるように、対外危機と軍事クーデターと経済危機の「危機の時代」であった。昭和初めの日本はこの危機を克服できない。著者は、宇垣一成の言葉を引用しつつ、当時の政治状況について、政党、軍部、官僚が四分五裂していたと叙述する。中期的に安定した政権運営が困難となってしまい、当時期待された第一次近衛内閣もこの分裂を固定化して包摂したものに過ぎなかったから、「基本路線もなければ信頼できる与党的勢力もな」かった。そして、この後に来たのは、「異議申立てをする政党、官僚、財界、労働界、言論界、学界がどこにも存在しない、まさに『崩壊の時代』」であった。

困難を乗り越えるときにこそ民意の結集を

   日本の近代が、旧幕の専制を否定し、万機公論を打ち出したところから始まった以上、原理上、別の専制を許容することには本来論理矛盾がある。だからこそ、近現代の歴史の中で、国政の参加者を拡げ、その意思を結集させる方向が長期的には支持を受け、それは、時に停滞や逆流の憂き目に遭い、その結果国の破滅という極限状態さえ迎えたが、人々は、大きな苦難と努力の中で、それを乗り越え、歴史の歯車を回してきた。

   日本近代史の最近の研究成果は、大きな困難を乗り越えるためには、確実な民意の発露を基礎としたその結集こそが求められるという大きな教訓をも明らかにしてきているように見える。坂野潤治氏は、平成23年3月11日の日本を盧溝橋事件(昭和12年7月7日)の頃の危機の中にある日本と比べていて、その是非は筆者には判断しかねるのだが、何れにしても、この大きな国難を乗り越え、復興に進むべき今、民意の結集する方向がどこにあるのか、その見極めを誤らないようにしていきたい。

(文中の意見は、筆者個人の見解です。)

総務省(課長)Victor

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