霞ヶ関官僚が読む本
「時代の狂気」にどう対処するか 幕末藩士の生き様にみる「覚悟」
幕末長州藩士、長井雅楽(ながいうた)の評伝である。『もう一つの維新』(奈良本辰也著、徳間文庫)。
雅楽は、「智弁第一」と称され、人格武芸も優れ、世子養育掛などを経て直目付に進んだ。桜田門外の変後、藩主毛利敬親から諮問を受けて彼が上申したのが「航海遠略策」である。要約すると、朝廷で支持されている破約攘夷論では列強と戦争になるが、そこには名分も勝算もない。鎖国は徳川以来の便法に過ぎず開国こそ本来の方針であり、むしろ積極的に外国の文物を取り入れて列強に対抗するべきである。積極的に海外に押し出す方向で公武一和が成るならば何も恐れるものはないというもの。
藩論が旋回
『もう一つの維新』
気宇壮大にして世界の現実に適った正論である。事実上の開国論ながら、朝命の下に「夷を圧する」という点で尊王攘夷派の自尊心をみたして公武合体を図る、時局収拾の名案でもあった。航海遠略策は藩論となり、実力者周布政之助の推挙により、固辞にもかかわらず雅楽は同策で朝廷・幕府間を周旋するよう命ぜられた。公武の各方面に同策を説き歓迎され、老中久世大和守・安藤対馬守から正式に周旋を依頼されるに至り、国論は同策にまとまるかにみえた。
しかし幕府の動きが遅れるうちに、長州では桂小五郎・久坂玄瑞ら吉田松陰門下の攘夷派が主導権を握り、破約攘夷を主張して雅楽を非難した。久坂は、安政大獄時に雅楽が松陰に冷たかったと憎悪していた。周布は時勢の変化を感じ、公武周旋から手を引くべきとして藩論旋回派に転じた。
坂下門外の変や寺田屋事件を経て航海遠略策が失速する中、雅楽の建白書に朝廷を謗るに似た言葉があるという言いがかりが雅楽を追い込む。長州が藩論を「航海遠略策」の開国論から「君臣湊川」の破約攘夷論に旋回するための生贄とされたのである。雅楽は無念ながらも、藩論の分裂を恐れて見事に切腹した。公武周旋の藩命から2年であった。
卓見の策がなぜ…
航海遠略策は卓見であり、雅楽の切腹は、司馬遼太郎の指摘の通り、時代の狂気による圧殺というほかない。本書の後半に、東上する雅楽が、藩主に和宮降嫁反対を説くために西下する周布と出会う場面がある。周布は、航海遠略策による公武周旋について「昨日の善も明日の悪に変わる時勢じゃということの上に立って、今一度考え直してみたい」と言う。雅楽は「これは貴殿が真先に主張したではござらんか」と非難して喧嘩別れとなるが、この応酬は興味深い。周布は、政治には時として理性で説明できない凶暴な流れが生ずるものであり、これに抗うことはできないと言いたかったのだろうし、雅楽は、時流だからといって、内容・手続きともに完璧な正論を捨てて敗戦必至の破約攘夷に宗旨替えするなど非常識であり無責任だと言いたかったのであろう。因みに、雅楽自刃の翌年、禁門の変の責任からか、周布は自決している。
手元にある本書の奥付をみると1985年6月とある。以来時々読み返すが、そのたびに雅楽への思い入れが強くなるような気がする。
経済官庁(I種職員)山科翠
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