「角栄」えぐる昭和史のフィルター 保阪正康が見た庶民宰相「光と影」
「田中角栄」とは何者だったのか?
田中角栄元首相の人気は歴代首相のなかで今もトップクラスにある。「首相の犯罪」として裁かれたロッキード事件、他方、日中国交回復の功労者。「庶民宰相」と親しまれた一方で、「政治とカネ」の源流として、日本政治における影の部分の象徴でもある。1993年に没して17年になるが、この人物は何者だったのか? ノンフィクション作家の保阪正康氏が2010年7月13日に出版した「田中角栄の昭和」(朝日新書)で歴史的な評価を試みた。
昭和史研究で菊池寛賞を受けている保阪氏が、田中角栄に関する多くの書を分析し、その背景となった昭和の実像を重ね合わせて書いた400ページだ。
1940年(昭和15年)、元首相は満州北部の対ソ戦前線基地に送られたものの、41年には結核の診断で内地へ送還、傷病兵として除隊される。すぐに東京に戻って土木請負の事務所を開設した。「まるで、入院生活中に計画を進めていたかのような素早い行動」と保阪氏は書いている。この田中土建工業は戦時下に中堅企業としての成功を収めた。元首相が属していた騎兵第24連隊はその後の45年8月9日、攻め込んできたソ連軍によって全滅した。
「反戦主義者でも非反戦主義者でもない代わりに、この世に生まれてきて戦場などで死んでたまるか、という自我を持ち、それを土台に生きてきた人物」。終戦にあっても、大日本帝国が崩壊したという虚脱感もなければ、国家の行く末を案じるという思想的、哲学的な悩みが感じ取れないとしている。
首相の座へと駆け上る様子について、大平正芳元首相の秘書だった伊藤昌哉氏が話すエピソードが随所に出ている。伊藤氏の著書「自民党戦国史」は政界の内幕を書いたベストセラーだったが、じつはこの書をまとめたのが当時出版社の編集者だった保阪氏であり、元首相を信頼していた大平氏、忠告する伊藤氏の実像が描かれている。
日中国交回復は元首相の光の部分である。周恩来首相と渡り合い、いささか品はないが田中流に主張している。核兵器の話が出ると、「軍国主義復活のために使う金はない」と答え、ソ連の参戦について「首つりの足を引っ張ったので、日本としては、ソ連を信用していない」と言い放つ。
保阪氏はこの書を「日本社会の成功者、そして失敗者である田中角栄を通して、戦前、占領期、戦後を読み解こうと試みた」という。角栄の一番弟子、民主党元幹事長・小沢一郎氏の動向が注目される今、小沢氏の光と影が重なり合うところが随所にある。
定価945円。