ブリキ玩具に込めた熱い思い――トミー創業80周年
タカラトミーから写真集が発売された。「おもちゃの匠 ものづくりの心が生んだトミーのブリキ玩具」。タイトルでなるほど、と思っていただけるだろう。しかし、この写真集からは、なるほどと思う部分と、本当の驚きの両方をもらった。ブリキの玩具を語ると、第二次世界大戦が外せないのだ。
「made in occupied Japan」が感じさせる「歴史」
タカラトミーが出した写真集「おもちゃの匠」
僕が生まれたのは昭和22(1947)年。敗戦からそう間もない年だ。この写真集で最初に驚いたのは、この年にトミーの前身である富山玩具製作所から輸出向けのブリキの玩具がすでに出ていたことだ。しかもこの段階からアメリカで人気商品になっている。原料のブリキはアメリカ進駐軍が持ち込んだ缶詰。缶詰の印刷を落とし、丁寧に伸ばし、それを素材としてブリキの玩具が作られた。当時の日本には玩具に回す金属など他になかったのだ。
当時、輸出品には「made in occupied Japan」と印刷されていた。占領下の日本で作られたことを示す。骨董好きの知り合いによると、この「made in occupied Japan」の文字の入った商品を集めるのが好きな日本人がけっこういるのだそうだ。珍しいというだけでなく、感慨もあるのだろう。もちろん、その文字の入っていた期間が限られていて、年代の証しになることも確かだが、それ以上に歴史を感じるからだろう。
この本の中にも登場する「PIGGY COOK(ブタのコック)」という玩具がある。昭和35(1960)年の商品。左手で胡椒を振りながら、右手でフライパンの目玉焼きを返す。電池を使った玩具だ。豚のキャラクターはだめだ、というアメリカの定説を覆し、ヒット商品になり、後続商品もよく売れたと言う。
「ブリキの玩具」を超えることができたのか?
アメリカで人気商品になった「PIGGY COOK」
国内向けのおもちゃ「DC-7C」
同じ頃、日本は高度経済成長期に入り、この頃から国内向けの玩具も好調になってきた。昭和34(1959)年、国内向けでもある日本航空DC-7Cが登場している。電池で走るブリキの飛行機だ。そうだ、この頃は1ドル360円だったと、ふと思い出した。
セルロイドの利用、プラスチック部品の利用と、工業製品の進化と同じように、玩具の素材や製造法も変わっていく。写真集は懐かしい時代にとどめられているのだが、読んでいるこちらとしては、その後を加えてしまう。
正直に言えば、ただのブリキの玩具である。しかしその後、それを超えることはできたのだろうか。その味わいはなかなか超えられないように思う。限定された中だからこその工夫は、限定が外れた瞬間に廃れるものかもしれない。
別にマニアではないけれど、自宅でも職場でも、僕の集めたブリキの玩具が棚の上に並べられている。壊れたままのロボットもいる。プロペラだけ折れた飛行機がある。職場では時に発想に詰まったデザイナーがその前でぼーっとしていたりする。ブリキの玩具にはそういう価値もあるようだ。
「PIGGY COOK」が創業80周年記念で復刻された。その値段に少し驚くが、この流れを知れば納得もできる。80周年、おめでとうございます。