会議中に「飲食店やれば?」
ちょーかんさん自身、友達は今後もますます増えていきそうだという。
海外から日本を訪れる旅行者を対象に、22年9月9日から実施している「84tour」は、ゲームクリエイターの直筆サインやイラスト、ちょーかんさんが40年かけて集めてきた貴重なアイテムが所せましと飾られた84店内を、90分間見て回れるサービス。ちょーかんさんと利用客とは、ツアーが終わればさようなら......ではなく、「84に来てくれた後も、連絡を取り合っている人がいたり」するそうだ。
ちょーかんさんは、社会に出ると同時に84を開いたわけではない。1984年4月に任天堂へ入社し、システムエンジニアとしてプログラムを組む毎日を過ごした。同社がビデオゲームビジネスに舵を切り、ファミコンを発売してから一年足らずの時期。「同期は全員ファミコンの存在を知らなかったが、翌年から『ファミコンの任天堂で働きたい』という若者が日本中からこぞって応募してくる」という、まさに一大転換喚期に居合わせた。
30才になった頃、営業をやってみたいと手を挙げ、「青森の僻地にあるタバコ屋さんにトランプを売りに行った」ことも。バックオフィスが長かったため、「外」がどうなっているのか実際に見て回りたい気持ちがあった。入社10年目に品質管理部へ配属が決まり、デバッグを通じてゲーム制作に関わるように。
任天堂には約12年務め、その後ゲームのデバッグを請け負う「猿楽庁」という組織を立ち上げた。
「猿楽庁」の名付け親は、コピーライターの糸井重里氏。ちょーかんさんが必死に考えた20案を見せ、この中から選んでくださいとお願いしたところ、糸井氏からはまさかのリアクションが。詳しくはスペースアーカイブにて(20:24~)。
84オープンへの道が突如拓かれたのは、ちょーかんさんが同社の長官(代表)を務めていた頃。しかも、重要な役員会議中だった。
「飲食店やれば?」
会議中にふっと頭にわいた言葉を、「はねのけなかった」。ちょーかんさんは「飲食店やろう」というより、「そうか、ボクは飲食店をやるんだな」と思ったそう。そうして2015年2月17日に84が誕生した。
多くの人に関わり、ゲームを通じて多様なクリエイティブに携わってきたちょーかんさん。作リエ恒例の質問「仕事をする上で最も大事にしている、クリエイティブの柱とは何か」という山下さんからの問いかけに対し、ちょーかんさんは、ネーミングやロゴデザインなど好きな仕事を手掛ける時に念頭に置いていることを明かした。
「どこにもないものを作る。ただし人に不快感、悲しみを与えることは作らない。ボクは大体自分に甘いけど(笑)、そういうデザインの仕事する時だけは厳しいです。妥協しない」
どれほど良いネーミング案がひらめいても、ネット検索でヒットした瞬間、泣く泣く切るという。オンリーワン、ユニークなものを生み出すことへの並々ならぬ熱意がある。