雑誌は何度も発禁処分
父親は官僚政治や権威主義を嫌っていた。中国を蔑視する政治家や軍人が増えるにつれ、激しく批判するようになる。1940年に言論雑誌「華北評論」を創刊したが、「この戦争は負ける。民衆を敵に回して勝てるはずがない」とおおっぴらに主張し、軍部に目をつけられる。雑誌は何度も発禁処分になった。父親が信念の人で、時流に流されない、「独立不羈(ふき)」の精神の持ち主だったことがうかがえる。
やがて征爾さんら母子は先に日本に帰され、追って父も帰国する。軍需省の顧問になり、満州時代の仲間とひそかに対中和平工作を進めていたが、実らなかった。そして敗戦。
父は言った。
「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」
こうして小澤さんの「好きなこと」にのめり込む新しい人生が始まる。ベースになったのは、父親譲りの稀有壮大な心意気だ。「中国に生まれ、日本に育った僕がどこまで西洋音楽を理解できるか。一生かけて実験を続けるつもりだ」と、著書『おわらない音楽』で語っていた。