もしもラグビーやってなかったら
念願のピアノが届いて練習に励み、ピアニストをめざす。しかし、中学生のころ一家は小田原に転居。通っていた東京・世田谷の成城学園中学があまりにも自宅から遠いため、学校の近くに下宿することに。その家にはピアノがなかった。仕方なく、成城学園高校音楽室のピアノを借りて練習した。
実弟で、エッセイストでもある小澤幹雄さんの『やわらかな兄 征爾』(光文社刊)によると、この高校の音楽室は、寂しい林の中にポツンとある一軒家だった。毎晩まっ暗な林の中を通って音楽室にたどりつき、手さぐりで鍵をあけ、電気をつけてピアノの練習をして、終わるとまたピアノの鍵をかけ、電気を消して戸口に鍵をかけて帰ってくる。まだ中学生の小澤さんはそれがとてもいやで、怖かった。のちに、「ピアノのある家がほんとにうらやましかったよ」と語っていたという。
小澤さんはこのころ、ピアにストをめざすと同時にラグビーにも熱中していた。ところが、試合中に人さし指を骨折した。指が曲がってしまうほどの大けがだった。ピアニストはあきらめざるを得ない。先生の勧めもあって、指揮者の道に転じることになった。「NIKKEI STYLE」は、「ラグビーがなかったら『世界のオザワ』はいなかったかもしれない」と書いている。