幻の「能登駅伝」
箱根駅伝の主催は、関東学生陸上競技連盟(関東学連」)。参加するのは関東の大学。そもそもは、関東の大学による地方駅伝でしかない。それがなぜ全国の注目を集めることになったのか。
『箱根駅伝を超えようとした幻の「能登駅伝」』(能登印刷出版部、大久保英哲・金沢星稜大学特任教授ら同大教員らの共著)によると、かつて「能登駅伝」というのがあった。1968(昭和43)年に始まり、77(昭和52)年に幕を閉じた。3日間で能登半島を一周、26区間341.6kmを走る壮大な駅伝だ。そこに全国から有力校が参加した。そのころは大学の「三大駅伝」の一つとされていた。
地元の石川県七尾市と読売新聞が大会を発案、企画運営は金沢大学など北信越地区の大学陸上部の学生たちが担当した。
当時、読売新聞は、青森から東京までを駆け抜ける「青東(あおとう)駅伝」を主催していたが、交通事情の悪化で年々開催が困難になっていた。同じ理由で、深く関わる箱根駅伝も存続が困難になるかもしれないという危機感を持っていた。そこで、新たに「能登」を立ち上げた。当時の正力松太郎社主は富山県の出身なので、「能登」は場所的にも好都合だった、と同書は記す。
しかし、「能登」は、諸事情で1977年に打ち切りに。「青東駅伝」はその前の74年に休止。そうした中で読売は「箱根」に注力する。系列の日本テレビが87年からレースを全国中継したことで、注目度が飛躍的に上がった。読売は現在、「箱根」を共催する立場だ。
「箱根」の活況は、大学進学率の上昇ともリンクしている。1960年代は、日本の大学進学率は概ね10%台だった。それが1970年代以降、飛躍的に上昇、最近は50%に達している。「箱根」を身近に感じる人が増えた。新興の大学にとっては、大学名をPRできる格好の場ともなった。