婦人公論11月号の「見上げれば三日月」で、阿川佐和子さんが次から次に登場してくる「新語」の分かりにくさを嘆いている。
「近頃、急速に馴染みのないアルファベット用語やカタカナ言葉が増えてきた...ここ数年、その勢いがさらに加速した気がする...新型コロナが猛威を振るい始めたことが要因として大きい」
ややこしい新語が増えたのはコロナのせい?...どういうことか。どうやら、新型コロナ感染症の周辺を固める 膨大な関連用語群のことらしい。いわく、パンデミック、エビデンス、クラスター、ソーシャルディスタンス、サーベイランス...さらにはPCRなどの略語まで。阿川さんは「日本語に直してくれんのかい!」と思う。
「そして気がつくと、自らも『十年前から知ってますよぉ』のごとき平然とした顔で 会話に組み入れている...でも、小さい声で言うけれど、本当はそんなによくわかっていない...報道番組の司会者なんぞをやっていなくてよかったと つくづく思う」
〈そこにはエビデントがあるんですか?〉〈クライスラーが起こった模様です〉〈PTA検査の結果についてですが〉...いずれも、筆者が「きっとそんな初歩的な言い間違えを何度もしていたにちがいない」という、想像上のやらかし例である。
■覚えられない店名
筆者は、ある社長の言い間違いにも言及する。社長は秘書に「へえ、連休に子供を連れてUFJに行くの? そりゃ混んでるだろうなあ」 秘書(笑いながら)「社長、違います。USJですから」。もちろん 大阪市にあるテーマパークのことだ。
二人の横で「連休はそんなに銀行が混むのか」といぶかった阿川さんは続ける。
「私も笑った。でも頭の片隅で『他人事ではない』と囁く声がした」
確かに、三文字アルファベットの略称は曲者だ。
「私の子供時代...すらすら口から出てきたのは、DDTとPPMとPTAくらいだろう。他に何があったっけ? GDPとかBBCとか。NPOとNGOはどう違うんでしたっけ?」
阿川さん、携帯電話やスマホが出始めて さらに混乱したそうだ。まず、iPhoneとスマートフォンの違いが判らない。友人の清水ミチコさんが呆れて「スマホが果物ならiPhoneはバナナ」と教えてくれたのだが、余計わからなくなったそうだ。
「あらゆるものがデジタル化された頃から 人々の会話にカタカナが増殖し始めた。ログインするためにはIDとパスワードを...URLをクリックしてそのサイトから資料をダウンロード...写真をスキャンしてJPEGで送って...わからーん!」
と 文句を垂れながらも、仕事だと思えば覚えるし、趣味の専門用語なら楽しみながら身につく。他方、このところ好きな洋菓子への関心が薄れてきたという。
「まずお店の名前が覚えられない...菓子そのものにも小洒落た名前が長々とついている...菓子職人はパティシエになり、ショートケーキはガトー・フレーズときたもんだ」
■徹底した自虐
時流へのボヤキは、ベテラン随筆家の定番である。それも、不便を楽しむような筆致が多い。阿川さんの本作「新語順応力」も王道を行く展開で、こう締めている。
「マカロンをやっと覚えたばかりの私にはとうてい追いつけない。昔は『しろたえのシュークリーム、おいしいね』と言っていたはずが、今や『〇〇』の『××』は絶品ね」とかなんとか言わなきゃならんのか!」
ちなみに〇〇には18字、××には33字の架空の店名と菓子名が入る。「わからーん!」をデフォルメした、彼女らしいお遊びだ。
阿川さんの自虐は徹底している。未知の言葉への困惑に始まり、誤用や言い間違いをしながら馴染む過程や、「10年前から知ってます」みたいに使う自分を笑い飛ばす。
ゴルフを始めた頃の勘違いが面白い。ある人に「僕はグリーンが苦手で」と言われ、「え? それは大変ですね」と大仰に同情した話。なにしろ阿川さん、打ち始めから旗が立つカップまで、ゴルフ場の「緑色の地面」を全てグリーンと呼ぶと思っていたそうだ。
安定の阿川エッセイ。読者へのサービス精神や構成の妙もさることながら、毎度これでもかと繰り出す小ネタの豊かさに感心させられる。
引き出しの多さと深さ、随筆家の生命線である。
冨永 格