第二次世界大戦では多くの大学生らが徴兵され、戦没死した。「学徒出陣」によるものだった。令和の時代には異次元の話かもしれないが、あれから80年――改めて戦争の悲劇と平和の尊さを訴える催しが行われている。
東京の有楽町朝日ホールでは2023年10月24日まで、「平和のための遺書・遺品展」。東京・西早稲田の早稲田大学歴史館では、11月12日まで企画展「学徒たちの証言を後世に」が開かれている。「遺書・遺品展」は11時半~18時半。「証言を後世に」は10時~17時。水曜休館。
戦後に『きけ わだつみのこえ』
「学徒出陣」は、1943年に始まった。戦火が拡大、兵員不足を補うため、それまで徴兵を猶予されていた大学生らも、戦争に駆り出されることになった。
同年10月21日には、明治神宮外苑競技場で文部省主催による「出陣学徒壮行会」が行われた。NHKによると、軍楽隊が奏でる行進曲に合わせ、東京帝国大学を先頭に、77校の学生2万5000人がそれぞれの校旗を掲げて行進した。秋雨でぬかるむ地面を、小銃を担いで進む学生たちの姿が、映像に残されている。壮行会には5万人を超える大観衆が集められた。約半数の2万5000人は女子学生だった。雨に濡れながら行進を見守り、涙を流す人もいた。
徴兵された学生の中には、特攻隊員になり、命を落とした人も少なくなかった。正確な記録がないため、実際に徴兵された学生の数や戦死者数は判明していない。
戦後の49年、戦没学生たちの手記『きけ わだつみのこえ』が刊行されベストセラーになった。元学徒兵や遺族らは「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」を結成して戦争体験を語り継ぎ、2006年、東京・本郷に「わだつみのこえ記念館」が開館した。
今回の「遺書・遺品展」は同記念館の主催。入場無料。展示された写真や手紙類を再掲した詳細な展示会図録も1000円で販売されている。
首相挨拶を「冷ややかに聞いた」
「学徒出陣」については、各大学で戦後、地道な調査や研究が続けられている。早稲田大では44年3月までに5700人以上が軍隊に入った。
東京新聞によると、早稲田大学歴史館の前身、大学史資料センターは2013~16年、存命の元学生らに聞き取りを実施。今回の早稲田の企画展では、そのうち16人の証言をパネルや映像で伝えている。大学関係者から学生に贈られた日章旗や、勤労動員の表彰状、軍隊での生活をつづった日記なども並ぶ。
朝日新聞は10月20、21日、読者投稿の「声」欄の大半を使って、「学徒出陣80年」を特集した。21日には、実際に「壮行会」に出席した神奈川県の僧侶、三田村鳳治さん(101)の投稿が掲載された。当時は立正大学生。壮行会では軍服姿の東条英機首相が「閲兵」。三田村さんは、「諸君のこの門出をお祝い申し上げる次第」という首相の挨拶を、「冷ややかに聞いた」と振り返っている。
出陣は「家名」を守るため
三田村さんと同じように「冷めた気持ち」で壮行会に参加した学生は少なくなかったようだ。
慶応大生だった岩井忠正さんも壮行会に参加し、のちに特攻兵となった。著書『特攻――自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言』(新日本出版社、弟の岩井忠熊さんとの共著)に、当時の複雑な思いをつづっている。
それによると、戦争末期、もはや「戦争批判」は口にできなかった。それは「不逞な考え」であり、「世間で一番厳しいタブーを犯すことになる」からだ。いまや、時流に逆らうことは不可能という「自己説得」のもと、「いさぎよく」召集に応じた。学徒出陣式には「冷ややかな気持ち」で参加した。死ぬことは分かっていたから、「一発ドーンと行ってやれ」と特攻に応じたという。
『ベニヤ舟の特攻兵――8・6広島、陸軍秘密部隊レの救援作戦 』(豊田正義著、角川新書)にも同じような証言が掲載されている。
壮行会に明治大学生として参加した菅原寛さんが、著者のインタビューに「私はこれっぽっちも戦争に行きたくありませんでした」と語っている。もし徴兵逃れをしたら、両親が「非国民」と罵られる。出陣に応じるのは「家名」を守るため、と自分に言い聞かせていた。だから出陣式で代表の東大生が「生等(せいら)もとより生還を期せず」と答辞を読んだとき、怒りで煮えくりかえった。「あの答辞は君の本心なのか! それとも軍部の命令で言わされているのか」と問い詰めたい気持ちだったという。
朝日新聞に投稿した三田村さんは、代表答辞の「もとより生還を期せず」というところで、東大生の声が一段低くなったのを覚えている、と書いている。