週刊現代(10月14日号)の「今日のミトロジー」で、中沢新一さんが文化人類学の視座から「アレ」について論じている。阪神タイガースに18年ぶりのセ・リーグ優勝をもたらした、マジック・ワードである。コラムは「山言葉」から始まる。
「マタギと呼ばれる狩人は、山に入って動物の狩をするとき、『山言葉』というものを使った...里にいて家族と暮らしているときに使っている言葉を避けて、特殊な単語を用いて、狩人どうしの会話をおこなうのである」
イヌはシュタ、水はワッカ、米はクサノミに。獲物のクマはシシとかナビレと呼び、クマと言えば鍋を意味するそうだ。このややこしい言い換え、いったい何のためか。
暗号じみた言葉を使わないと、山小屋に潜むネズミに聴き取られ、他の動物たちに警告を流される...そんな言い伝えがあるらしい。が、中沢説はもう少し学術的だ。
「ほんとうのところはコトバとモノを、山言葉という迂回路を使って、遠くに引き離しておくためである...狩は、山と森の神の世界でおこなわれる、聖なる行為である...日常的なコトバを安易に使うと、神の世界のモノ(動物を含む)を汚染してしまうと考えた」
ふだんの生活では、コトバとモノは直接結びついている。聖域を汚さぬには無口が一番だが、それでは狩での連携プレーに支障が出る。そこで、コトバとモノの距離をうんと離して会話を成立させるべく、両者を媒介する山言葉が必要になるのだ。
やがて笑いが爆発
山言葉は山中だけの方便ではなく、近代人もよく似たことはやっているという。
たとえばタイガースの岡田彰布監督。率先して「優勝」を「アレ」と言い換え、周囲にも同じ対応を指示した。そして、リーグ優勝という大物のアレを射止めてしまう。
「山言葉を使わずに会話をすると、狩のお目当てである動物たちが逃げてしまうと考えたマタギたちと、まったく同じ発想である」
中沢さんによると、プロ野球選手にとっての「優勝」は、日常を一歩踏み出した 聖なる出来事になる。聖なるものだからこそ、世俗の言葉でむやみに触れてはならないのだ。獲物を求め、黙々と山中を駆け回る猟師たちの心境である。
「聖なる領域に踏み込んで、優勝を手に入れるためには、監督も選手も、そのことを気軽に口に上らせてはならない。そのためにはコトバとモノ(現実)の間に迂回路を発生させなくてはならない。そこで『アレ』である」
余談になるが、中沢さんは精神分析学の始祖 フロイトが、「無意識」のことをやはり各国語で「アレ」と呼んでいたことを紹介している。それは、心の森ともいうべき無意識の領域に踏み込む 後進たちへのメッセージでもあった。〈この森では日常の意識を捨て、感覚を研ぎ澄まして注意深く進め〉と。「アレ」は単なるゴマカシではないのだ。
コトバとモノを 迂回路で遠回しに結ぶのが山言葉なら、逆に両者を短絡するのは「笑い」だという。だから山言葉の反対は、ふだん使いの言葉ではなく「笑い」となる。
「山言葉に守られた狩が成功し、『アレ』のおかげでリーグ優勝が果たされたあとには、喜びと笑いの爆発がおきる。人間の心は、『アレ』の沈黙と笑いの爆発との間を揺れ動く、生きている振り子なのだ」