サンデー毎日(7月16日号)の「校閲至極」で、毎日新聞 大阪校閲の林田英明さんが、半世紀前の名曲に潜む落とし穴について書いている...危うく落ちかけたと。
「3年目の同僚、今回は笑顔で近づいてくる。紙面点検用のゲラを再校したのだろう、疑問の箇所を指しながら私に問いかける...それは、1973年、南こうせつとかぐや姫が歌った『神田川』を形容するくだりだった」
記事中〈ダメ男との4畳半の同せいを女性が懐かしむ...〉とある。
その記事を最初に校閲した林田さん、自分が通した原稿だけに心中穏やかではない。初校を通した先輩が後輩から「校正もれ」を指摘され、場の空気が気まずくなる...校閲アルアルだろう。私はまず、将来どう化けるか判らない学生を「ダメ男」と決めつけたことに反応したのかと思った。だが、落とし穴は別の言葉で口を開けていた。
「余情あふれる作曲は南こうせつさんだが、作詞した喜多條忠(まこと)さんの一つ一つの言葉が哀愁と虚無感を漂わせる...喜多條さんは神田川沿いの下宿に恋人と同せいしていた学生時代を思い出し、一気に書き上げたという」
自社の記者と思われる元原稿の筆者も、それを最初に校閲した林田さんも、ついでに冨永も、思春期にこの曲を聴いた ほぼ同世代。他方、林田さんのもとに参上した若い校閲者は何世代か違う。まっさらな感性で彼女が疑問を持ったのは「4畳半」だった。
「4畳半フォークというのはあるそうですが」...その部屋の間取りがなぜ分かるのか、歌詞にそうあるのか。相手は先輩、よくよく調べての指摘であろう。
後輩に救われる
「そうなのだ。70年安保闘争の挫折で多くの若者たちが政治の舞台から私生活にこもっていく過程で恋人と同せいした安アパート...松任谷由実さんの命名といわれる『4畳半フォーク』という言葉が(原稿の)筆者と私の頭に刻まれていたと思う」
神田川といえば4畳半...そんな思い込みが筆者にも林田さんにも、冨永にもあった。一緒に銭湯に通った若い二人の暮らしには、なんといっても4畳半が似合うのだ。
「同僚に言われ目が覚めた。『神田川』の歌詞とメロディーが浮かぶ。『3畳一間の小さな下宿...』。3畳一間で二人、一体どうやって過ごしているのかと余計な心配をするよりも、手抜かりのわが初校を反省すべきであった」
つまり原稿の「4畳半」は3畳の誤りで、そのまま紙面に載れば訂正ものだった。同じ字数で直すなら「3畳間」...いや、狭い部屋の代名詞としての4畳半が使えないのであれば、いっそ「安下宿」あたりに換えるのがいいかもしれない。
いずれにせよ、誤りを笑顔で指摘してきた3年目の後輩女性は、言葉のプロとして、さらには社会人としてなかなか出来ている。
「"ダメ男"の私は、責めることのない同僚の『気にしなくていいですよ』と読み取れるまなざしが痛い。『神田川』の最後のフレーズが耳に響いてくる。『ただ、あなたのやさしさが怖かった』」
歌詞に否定され
校閲者が交代執筆するこのコラム。いつも思い込みの怖さを突きつけられ、かつての冷汗がよみがえる。今回はそれに、『神田川』から半世紀か...という感慨が混じった。
林田さんが初めてこの曲を聴いたのは中学時代、「大人の世界をのぞき見るような感情を抱いた」そうだ。私は高校生。修学旅行のバスで、最後列のグループが歌っていたのを覚えている。思い返せば、これほど合唱に適さぬ曲もない。
さて、同棲哀歌の舞台は思った以上に狭かった というお話だ。「4畳半フォーク」なるキーワードの引力、恐るべし。そもそも「3畳一間」という間取り自体、大人二人の生活空間にはなり得ない、というのが現代の感覚である。
作詞の喜多條は大阪から上京、学生時代(1960年代後半)の一時期、同じ早大生と高田馬場駅近くで同棲していた。詞は当時の思い出をベースに女性側の視点で綴られる。部屋の広さに関する思い込みを二番の歌詞が否定している。前後を再録すると...
〈貴方はもう捨てたのかしら 二十四色(いろ)のクレパス買って 貴方が描いた私の似顔絵 うまく描いてねって言ったのに いつもちっとも似てないの 窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 貴方は私の指先見つめ 悲しいかいってきいたのよ 若かったあの頃 何も恐くなかった ただ貴方のやさしさが恐かった〉
動かぬ証拠を前に、先輩も後輩もありゃしない。若手の気配りに平身低頭の林田さん、照れ隠しに歌詞を引きながら、懺悔録を上手にまとめている。
冨永 格