もう一人の私
俳号をめぐる記述で新鮮だったのは、句作しないで名乗ってもいいという視点だ。「とりあえず俳号」の軽いノリ。「号」の字が畏れ多ければ俳名と言い換えればいい。まずは名乗ってみる、作品はあとからついてくるというわけか。
夏井さんは俳号の効用を「違う自分を手に入れる」と説く。それを名乗ることで、俳句を詠むもう一人の自分にスイッチが入る、といった感覚らしい。
やみくもに勧めるだけでなく、どう考案すればいいのか、避けるべき名についてもアドバイスしてくれるのが夏井流のサービス精神だ。
「月下美人」などがいけないのは、自慢と独善が鼻につくからだろう。逆に、自虐が匂う「とんだ豚女」がまずいのは、呼ぶほうの身にもなりなさいという戒めである。
趣味をヒントにというのは納得できる。私の場合は料理と散歩、スポーツカーあたりだから、五音しばりでも「鍋あるき」「風来ぱん」「幌はずし」「二座ばりき」など、軽薄な案だがいくらでも浮かぶ。なるほど、実名発信より冒険はできそうだ。
人生で「別の名前」を持つ機会はそうない。私は開設10年となるツイッターの実名アカウントに、「たぬちん」なる別称を付している。これも、叶わぬ匿名願望のなせるわざだろうか。たまに川柳などをひねったら、それを使ってみよう。
〈俳号が決まり まだ見ぬ我に逢う〉 たぬちん
冨永 格