家電批評7月号の「写真批評」で 写真家の金村修さんが、いまのカメラマンに必要なのは愛嬌だと説いている。書き出しは穏当に、プロ写真家に求められる資質から。
「フィルムカメラしかなかった頃は、適正な露出やライティングを知っていることが必要でした...もちろん技術は今でも必要です。しかし、言葉を選ばずに言えば、高いカメラとパソコンがあれば、(広告写真の)スポンサーやアート・ディレクターの目をある程度誤魔化せる写真が撮れてしまう時代になっています」
実際、報道系ではプロのカメラマンに頼らず、記者や編集者が取材時に写真も押さえるパターンが増えた。とりわけ、奥は深いが特殊な技能が要らないインタビュー写真は、経費節減もあって取材者が「ついでに」撮ることが多い。
「今の時代にカメラマンになろうと思うなら、画像や映像の編集ソフトに精通すべきでしょう。撮影だけでなくレタッチ(撮影した画像データの加工修正=冨永注)や、動画もできなければカメラマンになれない時代です」
広告の制作現場では、デジカメで撮った画像をその場で確認しながら、ディレクターやデザイナー主導で作業が進んでいく。撮影者が覗くファインダー画面を共有しながら、責任者がアングルなどを指示することもあるそうだ。こうなると、撮る人は手足どころかシャッターを押すだけの「指」のような存在となる。
透明人間のように
広告制作などで「シャッター係」になってしまったカメラマンにも、求められるスキルはある。金村さんによれば、それが「愛嬌」なのだという。
「その人がいると何となく場が明るくなる、そんな猫みたいな愛嬌を持ったカメラマンが必要とされる...ドキュメンタリー系で成功している写真家には、昔からそんな猫っぽい人が多いのです」
金村さんの知り合いに、成田空港の三里塚闘争を撮っていた写真家がいる。闘争には加わらず、いつも農家の人達と酒を飲んでいて、合間に闘争風景を押さえたそうだ。
「威圧感がまるでない人なので、そこら辺にいて、猫みたいに適当に放っておかれていたからでしょうか、被写体の人達がカメラを意識していない。透明人間が撮ったような...テクニックだけではとても撮れない写真です」
猫のような愛嬌は、撮られる側をリラックスさせる。社会派の写真家にも、押しが強くギラギラしている人はいるが、そういう人は被写体より自分が主人公と思いがち。撮った写真にも、過度な解釈と主張、思い込みが滲み出るという。
「写真家が忘れてはいけないのは、カメラは緊張を強いる暴力的な道具だということ。そんなカメラの存在を忘れさせ、緊張を解きほぐすにはやはり愛嬌です...努力して身につくものではないので難しいですね」
例えばアラーキー
59歳の金村さんは日本写真協会新人賞、土門拳賞などの受賞歴がある実力者。モノクロの都市風景で知られるほか、辛口の批評でも有名だ。専門誌「日本カメラ」で読者コンテストの審査を担当するや、容赦のない講評に抗議が殺到。それが評判となり「金村修に叱られたい!」なる連載に発展したという。もっとも本人はいたって温厚らしい。
カメラも俎上に載せる「家電批評」での連載は、「1億総カメラマン」の時代に ざっくばらんに世相を「切り撮る」という趣旨で始まった。今作で82回を数える。
「プロの写真家なら猫になれ」...これが金村さんのメッセージだ。周囲に警戒心を与えず、抵抗なく懐に潜り込む才能である。有名どころでは 荒木経惟さんがそうだという。「人物を撮るというのは、相手のガードをくぐり抜けていきなり本丸を攻めること」...だから「自意識が高くて気難しい感じの人は写真家に向かない」という。
人物写真は、ポートレートにせよ社会派にせよ、被写体との関係性が作品にも表れる。特に子どもの表情は、写真スタジオのプロではなく、お母さん(お父さん)が撮ったものが 巧拙はさておき一番自然とされる。写される側が警戒せず、カメラという「暴力的な道具」の存在が消えてしまうのだろう。
私もツイッターに数え切れない写真を上げているが、思えば風景や車、動植物など、こちらに愛嬌が要らない被写体ばかり。こういうものは素人でも「映える」写真が撮れてしまう。プロの腕はやはり、画面に人物を捉えた時にこそ試されるのだろう。
冨永 格