個人情報の宝庫
本作のタイトルは「私と相手の境界線」である。親しき仲にも礼儀あり、ということだろうか。パートナーの行動の呼び水となったのは、「冷蔵庫の中がいっぱいだ」というスーさんの独り言だったらしい。当然、善意からの行動である。
そこは筆者もわかっているので、最終段落では矛を収めている。とりわけ「あわてて扉を閉めた」の結語は怒りを中和し、穏やかな読後感を残す。焼鳥屋で「口の中のものを言葉以外すべて飲み込んでから、『なぜそんなことをしたの?』と私は尋ねた」といった独自のレトリックも、彼女の愛読者を喜ばせるはずだ。
そうしたテクニカルな点とは別に、〈他人の冷蔵庫を勝手に開けたり いじったりしないで〉という問題提起は、「プライベートな領域」について読者に考えさせる。
冷蔵庫の中は極めて私的な空間であり、どんなものがどんな状態で収蔵されているかは究極の個人情報といえよう。他人には不合理に見えても、所有者なりの「使い勝手」というものがある。常備菜、飲み物のストック、調味料の品ぞろえやブランドなど、見る人が見れば食生活の概ねが丸裸になる。
スーさんの場合、相手は気心の知れたパートナーだから、恥ずかしいとか隠したいというレベルの憤りではないだろう。怒りの源はピンポイントで、所有者の許可を得ないまま食品を処分したことに尽きる。その果てに「私には作れない秩序」が実現したわけだから、ある意味、結果オーライなのではないか。
「ある種の泥棒」「尊厳を踏みにじる蛮行」といった激しい言葉とは裏腹に、私は怒りの迷彩を施した「のろけ」として楽しく読んだ。
冨永 格