週刊朝日(5月26日号)の「それでも乗りたい」で、下野康史さんがオープンカーの魅力を書いている。手練れの自動車ライターによる連載。いつも共感することが多いのだが、とりわけ今回は 私の漠とした思いをきっちり文字化してくれた。
「いい車に乗ると、人に言いふらしたり、薦めたくなったりする...お節介なのである」と始まる今作。車の生産技術は洗練されながらも均質化し、まるでダメな車が消える一方で、言いふらしたくなるような車も減ったという。そして本題となる。
「だが、昔から変わらずお薦めしたい車がある。オープンカーである」
下野さんが初めてそれに乗ったのは学生時代、友だちの兄が所有するホンダS800だった。友人宅を訪れるたびに物欲しげにしていたら、乗ってきていいよとキーを渡してくれたそうだ。筆者の年齢からすると 1970年代半ばの話と思われる。
「教習所のセドリックとウチの『ハコスカ』(箱型の三代目スカイライン、生産は1968~1972年=冨永注)しか経験のない新米ドライバーになにより衝撃的だったのは、青天井のオープンであることだった」
S800の生産は1966~1970年。当時の先端技術を満載した意欲作だったが、若葉マークの下野さんにとって、それは二の次だったのだろう。
「冬晴れの日で、風は冷たいが、陽射しは暖かい。エスハチのタイトなオープンコックピットから見ると、見慣れた景色にキラキラしたフィルターがかかっているよう...屋根がない車って、こんなに楽しいのかと圧倒された」
露天風呂の至福
歩行者、自転車やバイクも「青天井」に違いないが、車のそれは格別だという。
「上は外気に晒されているのに、下半身は安全地帯の車内にある。しいて言えば、露天風呂に近い。実際、オープンカーの幌をはぐった時に口をついて出る感嘆音は、露天風呂に首までつかった時に出る声とよく似ている」
「ウ~」とか「ア~」とかいうあれだろう。筆者はさらに思考の翼を広げ、オープンカーは「平和な車」だと展開していく。
「オープンで走っていて一度もいやな経験をした覚えがない。たぶんこっちが"顔出し"だからだろう。戦車の対極だ。同じ理由でマナーの悪い運転もできない。黒塗りのオープンカーでイキがってるヤクザはいない」
顔の見える相手に嫌がらせをする車は少ないし、逆に顔を晒して無茶な運転もできない。密室性や匿名性など、構造的に「煽り」「煽られ」を誘発する要素を欠く。そもそも、オープン車のドライバーはたいてい上機嫌でハンドルを握っている。
「どんなエンジンも、どんなサスペンションも、どんな内外装も、青天井の魅力を凌ぐことはないから、オープンカーならなんでもいい...人生、ちょっと変わるかもしれませんよ」
屋根がない非日常
いまさら隠しようもないが、私もオープン愛好者である。
新聞社に就職し、配属先(山口総局)で買った新車は黄色いスズキジムニー(1980年式)。非番の時は幌を外して運転した。もちろん、上司には「隠密行動もある仕事なのに目立ち過ぎだ」と怒られた。ちなみに、ひとつ上の先輩はくすんだ色の中古カローラだった。
いま乗っている、たぶん人生最後のマイカーとなるスポーツカーも幌式だ。オープンエアの開放感はクセになる。
よく「冬は寒くないの?」と聞かれるが、同じ空気に晒されている歩行者や自転車と変わりはない。いや、左右の窓が寒風を防ぎ、下半身にヒーターが効く分、歩行者より快適である。防寒着に身を包めば、公園のベンチでひなたぼっこをしているようなものだ。むしろ辛いのはエアコンが効かない夏である。日頃 そのあたりの説明に難渋していただけに、これからは「露天風呂」のたとえを使わせてもらおう。
下野さんは青天井と表現したが、車に屋根がない非日常感を「何か」にたとえるのは難しい。乗馬とは別物だし、ハンモックとも違う。私が助手席に乗せた親戚の女性は「遊園地のアトラクションみたい」と感激してくれた。
他方、眼前のトラックの排ガスや砂ぼこりが舞い込み、季節によってはスギ花粉、桜の花びら、紫外線、落葉などが降り注ぐ。私の車のように幌の着脱が手作業なら、常に空模様を気にすることにもなる。そうした不都合もひっくるめての「オープン愛」なのだ。
お陰で人生が変わったとは言わないが、人生の楽しみ方は教わった。
冨永 格