「忘れられた画家」若冲を再発見 米の美術コレクター「長い間、孤独でした」

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   日本に魅せられ、日本文化の再評価に貢献した外国人は少なくない。2023年4月13日に93歳で亡くなった米国の美術コレクター、ジョー・プライスさんもその一人だ。江戸時代の日本画家、伊藤若冲(1716~1800)に早くから注目し、コツコツと独自に作品を収集、最近の若冲ブームの礎を築いた人として知られている。

  • 東京・出光美術館が入る帝劇ビル
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最長5時間20分の入館待ち

   若冲といえば、今や回顧展が開かれるたびに大混雑、長蛇の列になることで有名だ。2016年に東京都美術館で開かれた「生誕300年記念 若冲展」は、最長5時間20分の入館待ちになるほど盛り上がった。

   21年には、代表作の「動植綵絵」が国宝に。様々な植物,鳥,昆虫,魚貝などが生き生きと描かれた30幅に及ぶ花鳥図の大作だ。江戸期の絵画作品では、北斎や広重などの浮世絵はまだ国宝になっていないから、若冲のすごさがわかる。

   ところが若冲は、半世紀ほど前は、一般にはほとんど無名だった。美術史家の辻惟雄さんが1970年、『奇想の系譜』(美術出版社)を出版。その中で、若冲ら江戸時代の特異な画家6人を「奇想の画家たち」として取り上げたことで、ようやく一部の熱心な美術ファンの間で若冲の存在が知られるようになった。

予言通りの「理解者」

   この若冲に、辻さんよりも先に着目していたのが、プライスさんだ。1953年、父が経営する石油パイプライン会社に勤務していた24歳のころ、ニューヨークの古美術店で若冲の作品「葡萄図」に出会い、独自に若冲コレクションを始めた。以来、江戸絵画のコレクションが600点を超えるという。

   若冲は京都生まれ。生家は錦小路の青物問屋。家業を継いだが、40歳ごろに引退。その後は好きな画業にいそしんだ。当時すでに人気が高かったが、画壇の本流ではなかったこともあり、やがてほとんど「忘れられた画家」となっていた。

   しかし、若冲は、「千載具眼の徒を待つ」という言葉を残していた。「理解者は長い時を経て現れる」という意味だという。

   プライスさんがその「理解者」となった。2013年8月1日放送の「クローズアップ現代」に登場したプライスさんは、「一番の理解者」になれた理由について、「それは美術の教育も受けず、専門家の言葉に影響されなかったからかもしれません」と語っている。

   国谷裕子キャスターに、「長く理解されず、孤独ではなかったですか」と聞かれると、「ずっと孤独でしたよ」とも語っていた。

コレクションは出光美術館に

   日本をこよなく愛したプライスさんは、2011年の東日本大震災には衝撃を受けた。13年には、被災地を励ましたいと、仙台、盛岡などで、若冲の巡回展を開催した。

   かねてから収集品を日本の美術館に引き継ぐことを望み、19年には出光美術館(東京)が約190件を一括購入した。20年には、同館で、新たな収蔵品となった「プライス・コレクション」による特別展「江戸絵画の華」が開かれていた。

   明治時代に、日本の文化財保護に努めた東洋美術史家のアーネスト・フェノロサ。日本の昔話に着目し、『怪談』のほか、多数の日本文化紹介本を残した英文学者のラフカディオ・ハーン。簡素なたたずまいの桂離宮を見て「涙が出るほど美しい」と讃えたという建築家のブルーノ・タウト。日本の民芸の発展に尽力した陶芸家のバーナード・リーチ。日本の文化や芸術を「再発見」し、価値を高めるために尽力したと称賛されている外国人は少なくないが、研究者でも専門家でもなかったプライスさんも、そうした稀有な人々の一人だった。

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