坂本龍一さんニックネーム「教授」 音楽にとどまらない教養・学識

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   ヒット曲を量産したわけではない。しかし、名前は誰もが知っていた。2023年3月28日に亡くなった坂本龍一さんは、ちょっと特異な音楽家だった。ニックネームは「教授」。しかし、自分では、「不遜な小僧」と称していた――。

  • 東京芸術大学に入った坂本さんは…
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クラシック音楽に幻滅

   坂本さんは幼少時から音楽の才能に恵まれ、クラシック音楽の勉強を重ねていた。中学生の頃には本気で「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」と信じていた。高校一年のころには、すでに東京芸大の有名教授から「芸大合格間違いなし」とお墨付きをもらっていた。

   しかし、芸大に入ったころにはクラシック音楽に幻滅。電子音楽と民族音楽以外には興味を失っていた。なんとなく進んだ大学院では一切、授業に出なかった。

   やがてアルバイトで、あちこちのスタジオミュージシャンをするようになり、交友関係が広がる。そこで知ったのが、自分のように正統な音楽教育を受けてなくても音楽的にすごい人がたくさんいる、ということだった。

   そんな仲間の細野晴臣さん、高橋幸宏さんと1978年、YMOを結成。シンセサイザーを使った「テクノポップ」で世界に衝撃をもたらす。

   YMOが欧米で受け入れられた理由について、坂本さんは自伝的著書『音楽は自由にする』で、細野さんと高橋さんには、1950~60年代を中心とした膨大な量のポップ・ミュージックが音楽データベースとして入っており、「ロンドンの観客が僕らの音楽に共鳴する土台になっていた」と、2人を讃えている。

   もちろんそこには、坂本さんのクラシック音楽や電子音楽についての素養も含まれていたに違いない。

   30代になると、精力的に映画音楽に取り組む。1983年の「戦場のメリークリスマス」で英国アカデミー賞作曲賞、87年の「ラストエンペラー」では日本人初の米アカデミー賞作曲賞。坂本さんの異才ぶりを世界がいち早く認めたことで、日本でも「世界のサカモト」という評価が定着した。

哲学者と対話

   坂本さんのニックネームは「教授」。東京芸大の出身者が当時、ポップスの世界にかかわることは珍しかった。クラシック音楽の知識が豊富な坂本さんは、仲間から畏敬の念も込めてそう呼ばれたようだ。

   しかし、坂本さんの教養・学識は、音楽のみにとどまるものではなかった。

   父の坂本一亀さんは、戦後史に残る著名な文芸編集者だった。三島由紀夫、野間宏、高橋和巳らを送り出した人だ。自宅には山のように本があり、坂本さんは中学生のころから、デカルト『方法序説』など難解な書籍を手に取っていた。大江健三郎や埴谷雄高、吉本隆明、哲学者のデリダなども愛読していた。

   そうした蓄積を示すのが哲学者の大森荘蔵さんとの共著『音を視る、時を聴く 哲学講義』(1982年刊)だ。YMOで人気絶頂の坂本さんが哲学者との対話本を出したということで当時、大いに話題になった。

   「音楽家の僕が哲学というおよそ縁遠い学問の受講者であることに疑問を持つ方も多いだろうと推察します」「西洋音楽は二十世紀に入り明らかにそれまでとは質を異にする非常な混乱の相を呈し、つき従ってきた音楽生徒である僕も自然にその混乱の渦中に引き込まれ現在に至っているという次第です」などと、哲学に接近する理由を語っている。

部活はサボる

   坂本さんはこのほか多数の著名人と共著を出している。音楽家としては異例だ。

「音楽機械論」(思想家の吉本隆明さんとの共著、1986年)。
「友よ、また逢おう」 (作家の村上龍さんとの共著、1992年)
「少年とアフリカ 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話」(作家の天童荒太さんとの共著、2001年)
「反定義 新たな想像力へ」(作家の辺見庸さんとの共著、2002年)
「縄文聖地巡礼」(文化人類学者の中沢新一さんとの共著、2010年)
『脱原発社会を創る30人の提言』(作家の池澤夏樹さん、ジャーナリストの池上彰さんほか共著、2011年)
『愛国者の憂鬱』(新右翼活動家の鈴木邦男さんとの対談、2014年)

   これらのラインアップを見ると、坂本さんが音楽以外のことにも幅広く関心を持ち、知識を深めようとしていたことがわかる。単なる「専門バカ」の「教授」ではない。

   ただし本人は、自著『音楽は自由にする』の中で、自分のことを再三、「不遜な小僧」だったと振り返っている。

   同じことは、中学・高校時代からの友人で、安倍内閣の官房長官も務めた塩崎恭久さんがFRIDAYデジタルで語っている。それによると、中学でブラスバンド部の部長だった塩崎さんは、部活をサボりがちな一学年下の大柄な少年に手を焼いた。「ちゃんと来いよ」と釘を刺すと、愛想笑いをしながら頷くもまた部活をサボった。それでいて発表日にはしっかり音を合わせてきた後輩が不思議でならなかった、という。

   「その時は坂本君が芸大の先生からピアノと作曲を習っていると知らなかったし、もう大人の身体をしていたので顧問と相談し、金管楽器のバス・チューバを割り振った。部長の立場からすると、生意気で憎たらしい後輩でした(苦笑)」と思い出を語っている。

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