プレシャス4月号の別冊付録「鈴木保奈美の現在(いま)」に、エッセイストとしても活動する鈴木さん本人が短文を寄せた。タイトルは「自分というおもちゃで、虚実を遊ぶ(すこぶる真剣)」。俳優という「分身」を、素材として客観視するまでを記している。
「早朝、まだ薄暗いスタジオに着くと、待ち構えていたヘアメイクアップアーティストが肌の調子を整え、眉を描き、チークを差し、髪をいい感じに巻いてくれて、鏡の中に『あの人』が出来上がってくる」
この書き出しに登場する「あの人」とはもちろん、俳優・鈴木保奈美のこと。メイクアップに続いて、スタイリストが練りに練ったコーディネートを着させ、アクセサリーで仕上げる。そしてカメラマンが光の角度と量を決め、人物像を切り取っていく。
「あの人の姿は、いわば彼らクリエイターたちが手間暇かけた作品だ。そのどれか一つが欠けても、成立しない。それでは、そこにいる『わたし』は、なんだ? 誰かが書いた台詞を喋って、誰かに言われた仕種をする『あの人』と同一人物なのか、それともどちらかが虚像なのか?」
ただ こうした「自我の混乱」は若い時の話で、歳を重ねて「開き直る」ことを覚えたそうだ。「どっちでもいいじゃない、わたしはわたし...今できること、今やりたいことを、全力でやる」と。
余裕なし、全部出す
「だから常に余裕はない。自転車操業である。でも、出し惜しみはしないと決めたのだ。惜しむほど 自分の引き出しは深くはない。全部出してしまったら、見たことのない新しい風が吹き込んでくるはず」
ここで筆者は、サッカー選手、本田圭佑さんの言葉を引く。
〈ボールを追って走って走って、もう無理だ、全部出し切った、と思ったその先に、最高のスルーパスが来たりするものなんですよ〉
「余裕なんてとっておかない。燃え尽きて打ちのめされたら、ヒートショックプロテインみたいに新しくて もっと質の良い筋肉ができてくるはず」
いささか自意識過剰だった子ども時代に引き戻されそうになることもあるが、あえて抵抗はしない。
「おぬし、可愛いところがあるではないか、なんて笑ってみる。ちょっと付き合って 泣いてやったっていい。そうやって自分とういう素材で存分に遊ぶことができたら、なかなか良いんじゃないかと思う、今のところ」