ニューズウィーク日本版(2月28日号)の「ニューヨークの音が聴こえる」で、NY在住のジャズピアニスト 大江千里さんが、中高年にピアノのたしなみを勧めている。初めてでも子ども時代の続きでも、「大人ピアノ」には新たな刺激があるという。
「僕の友人は習い事を始めるのが大好き。乗馬やチェロにピアノと、次々に趣味の範囲を広げている。僕は彼女を『習い事上手』と呼ぶ。うまくやろうなんて思っちゃいないのだ。やっていて楽しいから、そんなシンプルな気持ちだけで生き生きしている...」
具体的なスポーツや楽器ではなく 習い事全般、それも「始める」ことが好きというのがポイントだ。この冒頭から間を置かず、筆者は「ピアノがボケ防止になるという説がある」と本題に移っていく。
なんでも、指先を動かすのがいいそうだ。手は「第二の脳」と言われ、指を動かせば脳への刺激になる。左右の手が同時に異なる動きをし、日常ではあまり使わない薬指や小指を意識させるピアノは、数ある楽器の中でも脳の活性化に役立つらしい。
大江さんはここで、知人の音楽評論家 小貫信昭さんの著書『45歳、ピアノ・レッスン!』を紹介する。初めて人から楽器を習う小貫氏が、ビル・エヴァンス(米国のジャズピアニスト)の代表曲「ワルツ・フォー・デビイ」を弾くまでの実録である。
「これが『ぞうさん』とか『むすんでひらいて』だったら本にはならなかったのかもしれない。彼の場合は、単なる習い事じゃなくて、ピアノであの名曲を弾けるようになる、という明確なゴールがあった。そういう理由でピアノを始める人もいるだろう」
自由に触れる
アメリカでは15人に1人がピアノを弾く、というデータがあるそうだ。大江さんがNYで通った音楽大学のジャズ科でも、専門の楽器に関係なくピアノを上手に弾ける学生が多かったと。聞けば、子ども時代に通った教会が原点とのこと。みんなでゴスペルを歌う時など、伴奏に使うピアノやオルガンに自然に触れる習慣があったのだという。
大江さんによると、いきなり本格的なピアノに挑むより、鍵盤は小さくて軽いものがいいそうだ。音楽制作アプリをダウンロードすれば、パソコンやスマホ上の鍵盤で音が出せる。譜面などなくても「こちょこちょくすぐって音を奏でるのがいい」。
「大事なのは『自由に鍵盤に触れる』感覚と『弾けるようになりたい名曲』をゴールにすることだと思う...ダウンサイズさせた小さなピアノで、フランクに鍵盤と友達になれる楽しさ、これを僕は、強く勧めたい」
以上が「ニューズウィークの中高年読者」に向けたメッセージである。
「ピアノの良さは、言葉じゃ伝わらないような気持ちが通じることだ。そばにいる人が笑顔になるのもいい。触れれば音が鳴るのだ。弾いちゃいけない音なんてどこにもない」
ああ上野駅...
「そうはいっても...」と尻込みする読者も多かろう。ほかならぬ私も楽器とは縁遠く、小学校のハーモニカ、リコーダーのほかはギターを少しかじった程度。ピアノとなると敷居が高い。半面、知られた音楽家から「触れれば音が鳴る。弾いちゃいけない音などない」と背中を押されれば、その気になる人もいそうだ。
大江さんが説く「大人ピアノ」の効用は、実用的なところではボケ防止や話題づくりだろうか。60代の私は、おのずと脳の活性化に興味をひかれる。あとは何か一曲、みんなが知っているバラードあたりをこっそり練習し、終わりまで弾けるようになることか。
その暁には、飲みに行くのでもピアノがあるバーをさりげなく選ぶようになるかもしれない。よく目にする「街頭ピアノ」で華々しくデビューするのも悪くない。
しかし大江さんが「強く勧めたい」というのは、そんな妄想を抱く前に、まずは鍵盤に触れてみることだ。リアルの鍵盤でなくても、タブレットなどにダウンロードした作曲アプリで十分だという。ネットで何でもできる時代はありがたい。コロナ禍で自宅に籠っていた時期にピアノを始めた人も多いという。
習うより慣れよ...である。今さらプロになるわけでもなし、しょせん素人の気紛れだ。ヤマハ大人の音楽教室のHPによれば、入会者の7割が「全く初めての方」だという。
JR上野駅に期間限定で置かれた「駅ピアノ」の様子をのぞいた。公園口の改札内。SNS用に弾く外国人観光客や子どものほか、腕に覚えのある人も少なくない。近くの東京芸大生が混じるのか、プロ並みの演奏も聴けた。
足を止めて聴き入る人が20~30人。「聴く」と「弾く」の間に横たわる深い谷を思った。さて、勇気だけで飛び越えられるだろうか。
冨永 格