Pen 1月号の新連載「はみだす大人の処世術」で、作家の小川哲さんが「他人に意図を読まれるのが恥ずかしい」という自身の性癖を省察している。
「大学二年生の夏、友人たちとキャンプへ行った。バーベキューをして、たっぷり酒を飲んで、それなりに盛り上がっている最中に、友人のひとりがテントの目の前にあった、池と水溜まりのちょうど中間くらいの浅い水辺に突然飛び込んだ」
エッセイはこのように、青春の戯れから始まる。飛び込んだ友人は「おい、小川。一緒に水浴びしようぜ」と指名してきた。小川さんは「絶対に嫌だ」と拒みつつ、飛び込まないと収拾がつかないと覚悟し、傍らの友にこっそり携帯電話を預ける。そして友人たちに背中を押され、勢いよく飛び込んだそうだ。
「僕はその時のことを、恥ずかしい記憶として保存している。池に飛び込んだことが恥ずかしいのではない。大学生特有の、よくわからないノリを恥じているわけでもない。『絶対に嫌だ』と言いつつ、携帯電話を預けたことを恥ずかしいと思っている」
うん、わかる。ここで話は買い物に転じる。小川さんはスーパーで、特に食べたくもないブロッコリーを買ったことがあるという。たとえばカレーを作ろうと、タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、豚肉、カレールーをカゴに入れてレジの列に並んだとする。
「順番を待ちながら、僕は無性に恥ずかしくなる。このままだとレジの人に『こいつ、いまからカレーをつくるつもりだ』と思われるかもしれないからだ」
そこで筆者は、野菜売り場に戻り ブロッコリーをカゴに入れる。献立に迷彩を施す品を総称し、小川さんは自嘲気味に「フェイクブロッコリー」と呼んでいるらしい。
おとりの品々を
「これではまだ不十分だ...『カレーをつくるつもりだってことがバレたら恥ずかしいからって、フェイクでブロッコリーを入れている』と思われるかもしれないからだ」
用心深い小川さんはシチューのルーも買い足し、レジの人を惑わそうと考える。さらに、しらたき、みりんなどをカゴに加え、肉じゃがという選択肢を匂わすこともある。
「そこまでやってようやく、僕はカレーの具材を買うことができる...どうやら、自分の意思や意図を他人に読まれることを恥ずかしいと感じてしまうようだ。この癖のせいで、小説を書く時にいつも苦労している」
とりわけミステリー。現場に証拠(痕跡)があってアリバイがない容疑者が、真犯人であることはまずない。当たり前すぎて誰も驚かないからだ。大事故に巻き込まれ、安否不明となった重要キャラはたいてい生きていて、重要な場面で不敵に笑いながら現れる。
そうした「定型」に流れそうになると、困ったことに例の癖、すなわち筋を読まれることへの羞恥や嫌悪、恐怖が立ちはだかるのだ。「僕の中の『フェイクブロッコリー』が顔を出し、『このままじゃ読者に先読みされるぞ』と囁いてくる」のである。
「僕は作品にブロッコリーを入れ、しらたきを入れ、生クリームやズッキーニや乾燥ポルチーニ茸や練りわさびを入れているうちに、なにがなんだかわからなくなり、最後にはあんまり売れない本ができあがる」
創作の宿命
小川さんは間もなく36歳。2018年に『ゲームの王国』(早川書房)で日本SF大賞と山本周五郎賞を受賞し、人気作家の仲間入りを果たした。
冒頭は東京大学時代のキャンプ。口では嫌だと言いながら、池に飛び込む準備を怠らなかった自分を恥じる話である。もっと絞り込めば、携帯電話を預かった友人が〈こいつ、実は飛び込むつもりなんだな〉と見透かしていたであろうことが恥ずかしいと。
これは理解できる。飛び込まなくても、あるいは飛び込んでケータイをダメにしても、筆者は違う後悔に苛まれただろう。携帯を救いつつ 場の空気に合わせるという結論は、筆者なりの合理的判断であり、その代償としての 避けがたい恥ずかしさといえる。
意図を読まれた経験がトラウマになっているのか、スーパーのレジで献立を見破られるのも辛いという。ここまでくると いささか病的にも思えるが、それはたぶん、自著の読者にありきたりのプロットを読まれるのが怖い、という結論にもっていくための「つなぎ」なのだろう。三段とびの真ん中、ステップの部分だ。ただし、当該エッセイのタイトル「フェイクブロッコリー」はここから取っている。
他人に意図を正確に読まれる...いわば脳内や心を丸裸にされることへの抵抗は誰にもある。とくに読者や観衆を気持ちよく「裏切る」ことを求められる創作のジャンルでは、先を読まれてしまっては恥ずかしいどころか、作り手の完敗である。
思えば同じ物書きでも、私が長くやった新聞記者はその種の気苦労とは無縁だった。誤読の余地や曖昧さをとことん排し、誰がどこから見てもカレーだとわかる具材だけを、勢いよくカゴに放り込んでいけばよかったのだから。
冨永 格