週刊新潮(12月8日号)の「生き抜くヒント!」で、五木寛之さんが高齢者の運転免許について書いている。文壇きってのクルマ好きとして知られた五木さん。65歳で運転をやめた後もしばらく、3年ごとの高齢者講習を受けながら、免許証だけは使える状態で持ち続けた。そのあたりの機微を、「自由意志」をキーワードに語っている。
11月19日、福島市で起きた悲劇から本作は始まる。軽自動車を運転する97歳の男性が歩道に乗り上げて暴走、5人を死傷させた事故だ。おそらく高齢が主因だろうが、何歳ぐらいで車の運転からリタイアすべきか、五木さんは一概には言えないと書く。
「身体能力や運転技術には個人差がある...車の運転というのは...視覚はもちろん、聴覚や嗅覚、触覚その他、あらゆる感覚を動員しなければならない」
つまり五感を総動員できなくなったら潮時。ここからは自身の話となる。
「私は初老に達したときに運転をやめた。そのときの寂寥感というのは、たとえようのないほどのものだった...男をやめるくらいの覚悟が必要だったのである。〈これでおれの人生は終った〉と心の底からそう思った」
車はそれほどの存在だった。それでも、もう運転しないと決めたのは、身体的な劣化を自覚したためという。たとえば、両まぶたが次第に垂れ下がり、間近の信号は仰ぎ見ながら確認するようになった。後続車から警笛を鳴らされることも増えていた。
無二の親友との別れ
五木さんにとって、クルマは自由意志の象徴でもあったらしい。
「ときどき眠れぬ夜に、野外の駐車場においてある自分の車の中で時間をすごすことがあった。エンジンをかけてこの車を走らせさえすれば、いまから北海道へでも九州へでも行けるのだ、と思うと心がなごんだ。車は走るだけの道具ではない」
すぐには免許を返納せず 高齢者講習で粘ったのも、カード類と一緒に免許証を持ち歩いていたのも、「無二の親友」の面影を残しておきたい一心からだったと想像する。
「自分でハンドルを握ることを抑制しているのであって、免許証を持たないがゆえに運転できないのではない。そう自分のことを思いたかったのである...できない、のではなく、しない...権利は保持しつつ、自由意志によって運転しないと決めているのである」
五木さんは「はたから見ると滑稽な痩せ我慢としか思えないだろう」と認める。
「そこまでこだわる必要があるのかい、と笑われそうだ。しかし、運転をやめるというのは、そういうことである...何十年も車と生活した人だけにわかる感覚だろう」
「親友」と別れた空虚感は、70歳を超えて次第に薄れてきたそうだ。90歳になった筆者は、後輩高齢者たちに運転免許との向き合い方をこう助言する。
「ずっと持っていたければ三年おきの高齢者講習を受けることだ。そして、ある年齢からは自分で運転を控える。する自由と、しない自由を大事にしたいと私は思うのだ」
上記の結語、「自分で」の三字に傍点が打たれている。
1年ごとの許可制
自らレーシングチームを作るほどのカーマニアだった五木さん。〈運転はしないが、運転はできる〉...これが運転をやめてからの心の支えだったという。いざとなれば、法的にも身体的にも〈運転できる〉人間でありたかったと。「できないからしない」と「できるけどしない」は、結論は同じでも本人にとって雲泥ほどの差があるのだ。
私もクルマ好きの一人なので、大作家の葛藤はおおよそ理解できる。整備をしっかりしておけば、そいつは運転者の意のままに動いてくれる。とりわけ「エンジンさえかかれば、いまから北海道でも九州でも行ける」という万能感、といっても陸上移動に限ったことではあるが、思い立ったら何時でも 何処へでもというのが他の交通手段と違う。
「走るだけの道具ではない」という言葉が象徴するように、この輸送機械に実用以上の意味を与えている人ほど、断ちがたい未練が残るのだろう。
他方、身体能力や運転技能を過信した高齢者の重大事故が多発している現実がある。免許返上は、クルマ好きに踏ん切りをつけさせる早道ではある。
たとえば免許の交付は満80歳になるまでとし、運転は生活上どうしても必要な人に限り、能力のチェックを経て1年ごとに許可証を発行する、というのはどうだろう。
クルマ好きが「愛車なしの人生など考えられない。生活上どうしても必要だ」と主張したら? 私が担当者なら「もちろん最初は寂しいでしょう。でも、あの五木さんでも心の空洞は5年ちょっとで埋まったそうですよ」とでも言おうか。
冨永 格