「歳相応」に抗う 吉本由美さんは「らしさ」に身を染めない

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   天然生活12月号の特集「私らしく歳を重ねる」に、故郷熊本に住むエッセイストの吉本由美さんが「歳相応でなくっても」と題する文章を寄せている。

「子供を産むとか孫ができるとかの 歳相応のことをやってこなかったので、私は自分がおばあさんであることに気付いてなかった。ジーンズに白いシャツ着て颯爽と街へお出かけしたある日のことだ...」

   さて、何が起きたのか。バスの吊り革に掴まる74歳の吉本さんに、隣で立っていた少女が声をかけた。〈おばあさん、あそこの席 空いてますよ〉と。一瞬、誰に言っているのか判らなかったが、吉本さんをじっと見つめる少女。状況は明白である。

「親切心なのはわかっているし、実際 髪は白いし シワくちゃなのだから仕方ないとは思うのに...想定外の言葉にびっくりして『私!?』と声を立ててしまった」

   きつい口調に相手の戸惑いを察したのか、少女は顔を赤らめ小声で「すみません」と謝ったという。

「なんて嫌味なババアだろうか。『ううん、ありがと』。自分を恥じて席に着いたが、その気まずいワンシーンが 私のおばあさん初体験である」

   「頭と心はまだまだ40代50代をうろついている」という吉本さん。かの一件で、現実と自覚のギャップをどう埋めるかが今後のテーマとなった。そもそも、おばあさんとは着物を着ているものだと思っていたそうだ。しかし和装になるきっかけがなかった。同じ理由で、茶道、華道、書道、俳句など「美しく歳を重ねる要素」のどれにも馴染めていない。

  • あるがままで
    あるがままで
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服装は生き方

「要するに幼稚さから脱皮できないまま ここに来ているわけである。それを困ったことと思った時期もあったけれど、先が見えてきたここ数年は あるがままでいようと決めた。無理して"らしさ"に身を染めると自分がどんどん薄まっていく気がする」

   スタイリストだった吉本さんは、自分は自分、深みがないのも含めて個性だと考える。ふだんの着こなしも「着慣れたカジュアルな格好」だ。40代で目にした米国の画家 ジョージア・オキーフ、アンディ・ウォーホルらの、伝統的で自然だが洗練されたセンスに、「これだ、これ、この余裕。私はこういう格好で歳を重ねていこう」とひらめいたという。

「性別 年齢に左右されることなく 誰もが自由に自分らしく着こなせる格好。だからこそ その人となりが出る。服装は生き方なのだ」

   「自分らしさ」以外の「らしさ」と決別する人生は、ある種の覚悟を求める。

「世の中に左右されることなく中身が滲み出るような格好でいたいと思う。ということは中身も外見に負けないよう 柔軟でなければならないわけだ。そうか、そう努力することが私流上手な歳の重ね方だろうかと、今気が付いた」

いい歳こいて...

   「私らしく歳を重ねる」は、中高年向け雑誌の定番テーマである。特集のリードには〈昔と比べるのではなく「いまの私」を楽しむために。歳を重ねたからこそ、楽しめることがあります〉とある。どちらかといえば、年齢なりの楽しみに挑戦しましょうと読める。吉本さんはその「歳相応」にも染まらず、あくまで自分本位の老後を貫く。

   では、60代後半に「も」なって二座マニュアルのスポーツカーを転がしている私も、歳相応の生き方を無意識に拒んでいるのだろうか。そうかもしれない。吉本さんは「中身も外見に負けないよう、柔軟でなければならない」という。当方もせいぜい、車高113センチに乗り降りできるだけの足腰と腹筋、柔軟性の維持に努めたい。

   確かに、私も優しい少女らから優先席を譲られる機会が増えた。それでも、いつまでも「いい歳こいて」と言われるジジイを続けたいと 心から思う。もちろん公序良俗に従い、人様に迷惑をかけない範囲においてである。

   吉本さんのメッセージの核心は〈あるがままでいよう...無理して"らしさ"に身を染めると自分がどんどん薄まっていく〉という部分だろう。

   それでなくとも、年齢とともに社会での存在感は薄れていく。ならば服装や髪型、物腰や動作までを「らしく」せず、自分に正直にフェードアウトしていきたい。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。

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