女性セブン(10月27日号)の「いつも心にさざ波を!」で、野原広子さんが初めて一人で上京した時の思い出を書いている。茨城から出てきた少女は驚いた。大都会らしいビル群や目が回るような雑踏に...ではない。「ここには望む暮らしがある」と。
野原さんは東京から100キロ弱、人口3万ほどの田舎町で生まれた。
「私にとって東京は、憧れの街というよりもう少し身近で"その気になれば会いに行けるアイドル"といった感じ。とは言っても...『東京から来た人』『東京で買ってきたもの』が厳然とあって、それは必ずキラキラしている、というのがお約束だったの」
中学2年の時、単身で東京に行く用件が降ってわいた。親戚に小さな灯籠を届ける仕事である。新宿区中井の叔母さん宅には何度か行っていたが、一人は初めてだ。
家族で東京に土地勘があるのは、母親の再婚相手である義父だけ。難しい年頃の野原さんとは怒鳴り合いが絶えぬ仲だったが、東京の名が出たとたん、家の空気がガラリと変わったという。茨城の中学を出て上京、青山のパン屋で職人見習いをした義父は「東京のことなら任せておけ」と、乗り継ぎや一般的な注意点を耳タコで教えてくれた。
「しかし実際、親と一緒に乗る電車と、ひとりだけで乗る電車はまるで別もので、緊張で田舎娘の赤いほっぺは引きつっていたと思う」
ところが野原さん、日暮里に近づく常磐線の車窓景色にハッとし、我に返った。
「手が届くんじゃないかというほどの距離で、生活している人の姿が見えたのよ。何もない畳の部屋にテレビがひとつ。そこにステテコ姿の男の人が頭を手で支えて寝転んでいたの...私が望む暮らしが見えた気がしたんだよね」
理想の生活がそこに
望む暮らし...それをはっきり自覚したのは、働くために18歳で上京してからだ。
「何がいいって、東京には"人目"がない。そりゃあ、働くからには暮らしを向上させる努力もするし、欲しいものは買いたいよ。でもそれとは別に、田舎者にとって都会が素晴らしいのは、貧乏する自由があることなんだよね」
きょう食べるご飯がなくても自分だけの話、何を着ていようがとやかく言われない。同じような暮らしは田舎では望めまい...「これを天国と言わずして何と言う」
「冠婚葬祭の義理(お金のやり取り=冨永注)を欠くのは何よりあってはならないこと...田舎ならではのヒエラルキー。これがわが家のような最下層の職人くずれの家に生まれると、どうにもならないんだわ」
そんな価値観の中で必死に働き、親の代より少しでもいい暮らしを目ざす道もある。しかし筆者は迷わず東京を選んだ。幸い、大工になった年子の弟が実家を継いでくれた。
歳月は流れ、野原さんは45年ぶりにその家に戻り、母親の介護をすることになる。東京と地方の両方を知る立場から、エッセイはこう結ばれる。
「年をとると田舎のよさがわかるという...気持ちの半分くらいは田舎に向いているんだよね。でも、自分の生まれ故郷の集落は、私の母親をはじめとした面倒くさい年寄りはみんな天国に旅立ち、若い人たちは30年前に集落を出て、もうほとんど人が住んでいない...『貧乏する自由』なんて悠長なことを言っていられない65才。さあ、どうする」