力道山に見いだされた
猪木さんは横浜市出身。家庭の事情で、13歳でブラジルに移住。たまたま現地に遠征した力道山に見いだされて日本に戻り、1960年にプロレスラーとしてデビューした。後年、恩人の力道山が実は朝鮮半島(現在の北朝鮮)出身だったということを知り、北朝鮮との交流に取り組んだ。
今年9月12日に公開された朝日新聞記事「(現場へ!)拉致、北朝鮮と向き合う:1 力道山の叫び、直接届ける」では、猪木さんが朝日記者のインタビューを受けて、自身が北朝鮮と関わるようになった経緯などを説明している(取材は今年5月)。力道山の長女は、北朝鮮におり、猪木さんが1994年に初めて訪朝したときは、空港で出迎えてくれたという。
この取材をした北野隆一編集委員は、猪木さんの死を受けて10月1日、改めて以下のような猪木さんの発言を紹介している。
「体を張って直接現地に乗り込んで、一緒にメシを食って酒を飲む。毒をあおってもいいというくらいの覚悟で会いに行けば、相手も受けてくれる。私はそうやってキューバやイラクにも乗り込んできました」
「拉致問題の解決はもちろん大事だが、いきなりその話だけをするのではなく、日朝関係の将来の話もしながら、拉致問題にもきちんと触れる。そんな話し合いが大切ですよ」
そして、残念そうに語っていたという。
「私が元気だったら、また現地に乗り込んだかもしれない」
拉致問題に詳しい元参議院議員の有田芳生さんは1日、自身のツイッターで、「北朝鮮との重要なルートが、また消えてしまいました」とつぶやいた。