ゆうゆう9月号の「ちょっと休憩、ここで一句」で、医師で俳人の細谷亮太さんが同情と共感の違いについて書いている。それに気がついて、一生が決まったと。
久しぶりに山形の実家に帰った細谷さんは、1960(昭和35)年の懐かしい写真に再会した。小学6年の筆者と級友たちが写っている。町役場を訪れ、町の幹部に荷物を渡している場面だ。歳末助け合い運動か何かで、クラスで集めた生活救援物資だった。
忘れられないシーンだという。それがもとで、細谷さんは「一生を決定する出来事」を経験するからだ。一週間後、級友の親から父親に匿名の封書が届く。送り主の家計は苦しく、助け合い物資を持たせる、持たせないでひと騒動あったと書かれていた。
〈無茶な運動を計画したクラス委員の親はどんな教育をしてきたのか、その顔が見たい〉といった苦情だった。
物資集めは担任が指導し、強制ではなかった。すでに開封されていた手紙を盗み読んだ細谷さんは自ら弁明したいと思ったが、父は何も問うてこない。それきりだった。
「この一件が私に与えた影響の大きさは はかり知れないものだった。人のためになんらかの行動をするということの難しさを初めて思い知らされた出来事だったのだ」
細谷さんは「行わずには居られない気持ちになって行動し、それが多くの人から良しとされるような仕事」を、一生の職業にしようと心に決めた。偽善ではなく、誰にも喜ばれる仕事。医療もその一つだった。あの一件で「同情と共感の違い」を学んだ細谷さんは、専門分野を決める段にも、うわべの同情ではなく、本物の共感にこだわった。
「患者さん本人に共感することができることを第一に小児科を選んだ。二十四歳の私には年配の患者さんに心からの共感を寄せるのは無理だった」
悲しみを共有する
細谷さんが病棟で看取った初めての患者は、あやちゃん 3歳。末期の神経芽腫だった。
先輩の手際よさに圧倒されながら、採血や注射などの処置を懸命にこなした。しかし、もっと経験を積んでから担当したかったと、幼い患者を気の毒に思った。
小児がんの権威となり、そんな思い出をメディアで吐露したところ、あやちゃんのお母さんから思いがけず手紙が届く。亡くなって30年以上がたっていた。
〈先輩の先生たちがお悔やみを述べて引き上げられた後も、一番若かった細谷先生は動く事も出来ない様子でした。鼻をすすりながら部屋の隅に長時間立ち続けておられた。それが私たちにはなによりの救いでした〉
「本当に悲嘆のどん底にいる人にとっては、気の利いた慰めの言葉よりも、まずは同じ悲嘆を共有してくれる存在こそが大切という事実を確信させてくれたお手紙だった」
先日、公益財団法人「がんの子どもを守る会」の年次大会がリアル対面形式で開催された。細谷さんは分科会のひとつ「お子さまを亡くされたご家族の交流会」の担当医師を務める。亡くして間もない人もいれば、何十年も通う父母もいる。
「ズーム(代表的なウェブ会議ツール=冨永注)では作れない共感の時間だ。現役を退き小児がん治療最前線からは少し後方に位置を変えた私だが、共感力はまだ若いのには負けない。この方面での活動を続ける意義をつくづく思った」