三宅一生さんが明かしていた被爆体験 オバマ大統領に「広島訪問」要請

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ニューヨークタイムズに寄稿

   三宅さんは2009年7月、自身の被爆体験をニューヨークタイムズへの寄稿で初めて公にした。

「当時、私は7歳。目を閉じれば今も、想像を絶する光景が浮かびます。炸裂(さくれつ)した真っ赤な光、直後にわき上がった黒い雲、逃げまどう人々......。すべて覚えています。母はそれから3年もたたないうち、被爆の影響で亡くなりました」

   その年の4月、オバマ米大統領(当時)がプラハの演説で、核兵器のない世界を目指すと約束したことが、三宅さんが被爆体験を語る引き金になった。寄稿では、大統領に広島訪問を促し、16年に実現した。

   平山さんは、原爆投下から34年もたった1979年になって、ようやく「ヒロシマ」をテーにした大作「広島生変図」を描くことができた。広島の街を焼き尽くす炎の中に不動明王が描かれている。画面全体が真っ赤に塗りつくされた異様な作品だ。

   平山さんはその後、画家としての活動と同時に、世界平和にかかわることが増えた。とくに、「文化財の赤十字」活動は有名だ。戦争や国際紛争などで、世界各地で危機に瀕していた文化財の保存修復、散逸防止に取り組み、国際的にも高く評価された。


   森永さんは著書『なぜ日本だけが成長できないのか』(角川新書)の中で、「私は核兵器をこの世からなくすべきだと考えている」と語っている。そして、被爆国の日本が、核兵器禁止条約に参加しないのは、「対米全面服従によるもの」と断言している。

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