サンデー毎日(8月7日号)の「校閲至極」で、毎日新聞東京校閲部の薄(うすき)奈緒美さんが、方言に潜む落とし穴について書いている。自身が幼少期から親しんだお国言葉だからこそ、校閲作業で足をすくわれることがあると。文字メディアの最後の門番、カンペキを旨とするプロの校閲者も人の子なのだと、妙に安心した。
薄さんはある日、職場の先輩に「鼻を曲げる」という表現について聞かれた。へそではなく鼻、悪臭の例えである「鼻が曲がる」とも違う。筆者がさらりと〈機嫌が悪くなり、むっとする〉くらいの意味ではと答えると、先輩は〈やっぱり薄さんは知ってるんだ。辞書にも載っていないし私は知らなかったよ〉と。どうして〈やっぱり...〉なのか。
「これ、新潟の方言だったのです。日常的に使っていた新潟出身の私は、辞書にも載っている普通の言葉だと思っていました」
先輩は彼女の出身地を知っていたわけだ。数日後、こんどは別の同僚からも同じ質問をされた。なんでも紙面に「鼻を曲げて」とあり、同僚は〈むっとして〉などに変えることを提案したという。先輩が見たのも同じ紙面なのだろう。
「私が校閲を担当していたら、違和感を持たずにそのままにしていたでしょう」
もちろん会話文なら方言でも構わないし、むしろ味が出ることもある。しかし、多くの読者が首をひねりそうなものは標準語に直すか、注釈をつけるのが常道だ。
「悩ましいのは、語尾などが違えば方言とすぐに分かるものの、今回のように表現が独特で方言とは気づいていないものがあることです」
鼻を曲げずに
やはり新潟の言葉で「(先生に)かけられる」というのがあるそうだ。大学進学時に東京に出てきた薄さん。「明日の授業でかけられるかな」と学友に話したらポカンとされた。標準語の「さされる」「あてられる」と同義の方言だと知り、赤面したという。
名詞そのものが異なる場合もある。筆者によると、一般に「模造紙」と呼ばれる紙のことを、新潟では「大洋紙」と呼ぶ。模造紙とは、広辞苑によると〈なめらかでつやがあり強靭。雑誌の表紙、事務用品、各種包装紙などに使用される紙〉である。ちなみに熊本や佐賀では「広洋紙」、香川や愛媛では「鳥の子用紙」になるらしい。日本も広い。
「代々その土地で使われてきた言葉は文化です。これからも残っていってほしいと思います。一方で、新聞は多くの人の目に触れるもの。理解できない人がいる言葉は、使わない方がいいのも事実です」
高校までの18年間を新潟で暮らした薄さんは「標準語と思い込んでいる言葉がまだまだあるはず」としたうえで、コラムをこう無難に締めくくる。
「そんな表現が出てきて『それ方言だよ』と指摘されたときは、『新潟の人には通じるもん』なんて『鼻を曲げず』に、粛々と赤字を入れたいと思います」
総じて慎重な新聞
新聞や雑誌、単行本の品質管理において、校閲部門は最後の砦にあたる。ここをすり抜けた誤りは、商品とともに読者のもとに届けられ、誤りを再生産することになる。現役校閲者によるコラム(今作が203回)のネタが尽きないのは、それほど大量の誤りが関所にたどり着くということ。他紙や出版各社でも同じはずだ。
校閲者でさえ、自分が長らく使ってきた方言を標準語と思い込むのだから、書き手が同じ勘違いをしていても不思議はない。かつて原稿を出す側にいた私が、一読して「安心」した理由もそのへんにありそうだ。
間違わないための目安のひとつは、辞書にあるかないかである。「鼻を曲げる」も「かかる」も「大洋紙」も手元の辞書にはない。ただし複数の府県にまたがるような言葉は載ることもある。例えば、片づけるという意味で使われる「片す」(東北や関東地方)「直す」(西日本)は、使用地域を示して広辞苑に収録されている。
こうして見ると、方言と標準語の境界はぼやけてくる。いわゆる標準語以外の言葉がどこまで許容されるか。同じことは日々生まれては消えていく新語についても言える。 辞書ほどではないにしても、新語の採用について新聞は保守的である。薄さんも「理解できない人がいる言葉は使わない方がいい」と慎重だ。
どこかに融通の利かない門番がいてくれないと、日本語はどんどん漂流してしまう。その意味でも、どこかホッとする連載コラムである。
冨永 格