総じて慎重な新聞
新聞や雑誌、単行本の品質管理において、校閲部門は最後の砦にあたる。ここをすり抜けた誤りは、商品とともに読者のもとに届けられ、誤りを再生産することになる。現役校閲者によるコラム(今作が203回)のネタが尽きないのは、それほど大量の誤りが関所にたどり着くということ。他紙や出版各社でも同じはずだ。
校閲者でさえ、自分が長らく使ってきた方言を標準語と思い込むのだから、書き手が同じ勘違いをしていても不思議はない。かつて原稿を出す側にいた私が、一読して「安心」した理由もそのへんにありそうだ。
間違わないための目安のひとつは、辞書にあるかないかである。「鼻を曲げる」も「かかる」も「大洋紙」も手元の辞書にはない。ただし複数の府県にまたがるような言葉は載ることもある。例えば、片づけるという意味で使われる「片す」(東北や関東地方)「直す」(西日本)は、使用地域を示して広辞苑に収録されている。
こうして見ると、方言と標準語の境界はぼやけてくる。いわゆる標準語以外の言葉がどこまで許容されるか。同じことは日々生まれては消えていく新語についても言える。 辞書ほどではないにしても、新語の採用について新聞は保守的である。薄さんも「理解できない人がいる言葉は使わない方がいい」と慎重だ。
どこかに融通の利かない門番がいてくれないと、日本語はどんどん漂流してしまう。その意味でも、どこかホッとする連載コラムである。
冨永 格