ハルメク7月号の「毎日はじめまして」で、村木厚子さんが努力と才能について論じている。よく言われる「努力できるのも才能のうち」という考え方は妥当なのかと。
村木さんはこのところ漫画にハマり、お嬢さんや、客員教授を務める津田塾大の学生たちにお勧めを教えてもらうそうだ。そうして知った山口つばさの『ブルーピリオド』(講談社の月刊アフタヌーンで2017年夏から連載中=冨永注)で、考えさせられるやりとりに出会う。高校生になってから美術に目覚め、みごと東京芸大に現役合格した主人公(男性)が悩みながら成長していく青春ものである。
主人公は努力しても腕が上がらない自分に幻滅し、才能あふれる友人をうらやむ。その友人が放ったひとこと〈努力できるのは才能〉を起点に会話が展開していく。
主人公は〈才能がないから努力しているんだ〉と反論する。〈才能がないのを補うのが努力であって、努力は努力、才能ではない〉と。
「実は夫と私の間でも、時々似たような会話が繰り広げられます。夫は『努力できるのは才能』派、私は『努力は努力』派です」
さて、大学での会話にはもう一人の友人が〈努力できんのは環境じゃね?〉と加わる。〈ビンボーだと努力すんのもすげーコストがかかる...〉〈つか俺だって戦場の兵士だったら絵なんか描くどころじゃねーし〉と。「この言葉にハッとさせられました」
親ガチャを越えて
この漫画には、画材が高価なこと、美大に入るための予備校があることなど、才能を活かすにしても努力を重ねるにしても、先立つモノが要る現実も描かれている。
「美術やスポーツに限らず、教育を受けるにはお金がかかります...子どもは親や家庭を選べないといった意味で『親ガチャ』という言葉が流行語大賞の候補ともなりました。努力ができる環境をどの子にも用意するのは、私たち大人の責任だと思います」
筆者によると、日本では高校から大学や専門学校に進む割合が8割を超す。これが一人親家庭になると約6割、生活保護世帯では4割に届かない。虐待などを理由に養護施設や里親の元で暮らす子(約45000人)に限れば3割にも満たないという。
「世界に目を向ければ、生まれた国や時代によって、女の子だから教育が受けられない、戦火の下で、教育どころか命を脅かされている子どもたちもたくさんいます」
村木さんは毎年、大学の新入生に「最も関心のある社会課題」を挙げてもらうそうだ。今年は教育格差と答える学生がたくさんいたという。 「努力できるのは才能」対「努力は努力」の対決には決着がつかないかもしれない、としたうえで、村木さんはこうまとめる。
「その前提としての『努力できるのは環境』は、きっとみんなに賛成してもらえる。その環境をつくるために何ができるかを、みんなで考えたいと思います」
こども家庭庁への注文
村木さんは周知の通り、曲折を経て厚労事務次官(2013~15年)に登り詰めた元官僚。もともと「役人臭」の薄い人だが、肩の力が抜けてエッセイストらしくなってきた。文章は技巧に走らず、変わらずわかりやすい。
本作は要するに「誰もが努力できる環境を」というアピールである。存分に努力するには、家計の都合や親の理解など「余計なこと」を考えず、目標に集中できる条件が必要だ。少なくとも、努力できる機会を均等にしようということだろう。
村木さんは「新しく『こども家庭庁』ができるなら、そういう環境をめざしてほしいと心から思います」と書く。苦労人の行政経験者が「ですます」調でそう語れば、おのずと説得力が増すというものだ。
「一億総中流」と言われた昭和の時代と比べ、国内の経済格差は確実に広がった。貧困が引き起こす教育格差は、生涯賃金を左右し、貧しさは連鎖していく。「親ガチャ」はそんな現実に対する呪いと嘆きの言葉であり、うまくいかない自分への言い訳であり、あきらめの言葉でもある。
貧困の連鎖を断つには、挑む前からあきらめる子をなくさねばならない。心配なのは、そのための政策を練ったり決めたりする人の多くが、努力できる環境に恵まれていたであろうことだ。たぶん世襲議員あたりは、本人の責任ではないが親ガチャの大当たりで、「努力不要」の環境だった人も少なくなさそう。霞が関や永田町かいわいでは、強さと優しさを併せ持つ人はそれほど多くはない。
子育て支援や虐待防止の司令塔となるこども家庭庁は、関連法の成立で来春の発足が正式に決まった。事情が許すなら、初代長官に村木さんはどうだろう。
冨永 格