週刊朝日(2月25日号)の「ときめきは前ぶれもなく」で、下重暁子さんが評論家の扇谷正造(1914~1992)について書いている。本号は創刊100周年の記念号。1951年に週朝の編集長に就いた扇谷は、終戦時に約10万部だった部数を最大150万部に伸ばした功労者で、下重さんの連載もこれを意識した内容となった。
扇谷が朝日新聞を退社したのは1968年。同じ年、下重さんもNHKアナウンサーからフリーに転身した。縁はそこにとどまらず、お二人はほどなく、連れ立って東北地方を講演で回る仲となる。講演のスポンサーは東北電力、ちなみに扇谷は宮城県の出身である。
「ジャーナリストの大先輩であり、評論家として飛ぶ鳥を落とす勢いの扇谷氏と、NHKをやめたばかりの駆け出しの私。いつも暖かく接していただいた」
扇谷が23歳下の下重さんを気に入り、コンビに指名したそうだ。講演は秋から冬の農閑期と決まっていて、会場はいつも満員だったという。
「朴訥だが誠実なお人柄で、内に熱いものを秘めていた。講演会は何年にもわたったが、秋も深くなるとそろそろまた、御一緒に旅ができると楽しみに待つようになった」
下重さんの母親の生地、新潟も東北電力の管内で、新潟市に近い五泉(ごせん)市で講演会が開かれたこともある。前日、雪が降る中を現地に入り、当日は主催者の強い勧めで朝市を二人で訪ね歩いたそうだ。
言葉に励まされ
時流に敏感で目端が利き、「週刊誌の鬼」と呼ばれた扇谷。ほぼ同世代である文藝春秋の池島信平、暮しの手帖の花森安治と並べて、評論家の大宅壮一は「戦後マスコミの三羽烏」と称した。
後に自己啓発系の著作をたくさん出すことになるだけに、講演は高度成長期のサラリーマンや若者たちに生き方を指南するような内容になったはずだ。
「扇谷さんの講演は、『自分の顔に責任を持て』とか、『名刺で仕事をするな』など身近なお話が多く、私もおおいに学ばせていただいた」
中でも忘れがたい言葉があるという。
〈生き甲斐とは、ギリギリの限界まで自分の可能性を試してみた後にほのぼのと感ずる喜びであり、あるいは涙である。成功、失敗なんてのは二の次、三の次である〉
〈だが諸君よ、この人生は生きるために値する。辛けりゃ辛いなりに〉
総じて叱咤激励調だ。
「従軍記者として、生死を分ける地に赴いた人の言葉には重みがあった...その言葉にはげまされて、今まで生きてこられた」