「運」への期待 浅田次郎さんは「人生からそれを排除せよ」と

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   婦人公論2月号の特集「自分史上、もっとも幸運な一年に」に、作家の浅田次郎さんが「人はなぜ『運』に期待するのか」と題するエッセイを寄せている。

「私は『運』を信じないようにしている。信じないのではなく、なるたけ信じないよう心がけているのである。理由の第一は考えてもキリがないから。理由の第二は努力の妨げになるから」

   出だしから何やらハードボイルド風である。浅田さんは、似て非なる「二つの運」を分けて考える。まず生老病死のような人間的運命については、哲学を伴うので悩むだけの価値はあると。一方で「当日の運勢やらゆえなき予感やらに惑わされて行動することは、まず百害あって一利なし」と切り捨てる。

「すなわち、おのれの人生にまつわる『運命』については常に考え続け、他者が無責任に規定する『運勢』については一切こだわらない...私の掟である」

   その上で、運の良し悪しについての考察となる。

「多少の運や偶然が作用したにせよ、やはり結果を導いたのは他者の気付かぬ努力や怠惰、性格や隠された人格等、さまざまの人間的要素の累積であろう」

   幸運にも不運にも、それなりの因果があるはずというわけだ。著者はさらに踏み込み、世の人間を現実主義者と夢想家にざっくり分類する。

「客観的に『うまくいった』と見える人物にはリアリストが多く、『こんなはずじゃなかった』と思っているにちがいない人物にはロマンチストが多い。つまり、はなから『運』など信じない前者と、『運』という美しいラッピングで人生をくるみこみたい後者である」
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「天命」の利用

   では、浅田さん自身はどちらなのか。ロマンを字にする仕事柄、リアリストに徹することはできないという。これこそが、運を「信じないよう心がけている」という曖昧な立ち位置の理由である。とはいえ「読者が詩人か小説家でないなら、ただちに『運』の概念そのものを人生から排除すべきだと思う。幸運を掴む早道である」と明言するほどだから、仕事を離れれば筋金入りのリアリストなのだろう。

   エッセイの後半、浅田さん得意の中国史に触れた部分がある。古代中国の王たちは、政(まつりごと)を行うにあたり、亀の甲羅や牛の骨に懸案を刻字して天に問うた。敵への対処、穀物の作柄、旅の安全、すべてがそうした占いの対象となった。

「まさしく運を天に任せていたのである...情報はほとんど入手できず、王が命令を下すべき合理的な根拠が、ほかになかったのだろうと思う。結果の成否にかかわらず王の権威を維持する方法として、『天命』を利用したのではあるまいか」

   個人があらゆる情報を入手できる世になったのに、変わらず運に期待する人が多いのはどういうわけか。作家は「人間社会は進歩していない」と自答する。古代の王と同じく、勝ち負けを「天命」のせいにすれば己の責任は軽く、気は楽になる。

   浅田さんによると、「運」という漢字は〈車上に旗をなびかせて指揮を執り、軍勢を動かす〉という意味だという。

「そうしたリアルな字義が、ロマンチックな『運』に転じた理由を私は知らない。たぶん、そのくらいいいかげんなものだとは思うのだが」
冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。
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