オミクロン株の国内急拡大に、在日米軍の関与が指摘されている。米軍基地内でクラスターが発生、米軍関係者や基地で働く従業員などを通して周辺の日本人に広がったと見られている。
歴史をさかのぼると、感染症の拡大には軍隊がしばしば関係している。軍隊そのものが大きなダメージを受けたこともある。
米軍兵舎で発生したスペイン風邪
約100年前の「スペイン風邪」では世界で数千万人が死んだ。『猛威をふるう「ウイルス・感染症」にどう立ち向かうのか』(ミネルヴァ書房)によると、このスペイン風邪は、もともと北米の米軍兵舎で発生。感染した兵士が第一次世界大戦で欧州戦線に派遣されたことで罹(り)患地域が拡大した。
参戦国は自国民に大量の被害が出ていることを報道管制で隠していた。スペインは非参戦国だったので、情報を公開。スペインで流行していることだけは明らかにされた。その結果、「スペイン風邪」と呼ばれるようになったという。
感染症の大流行には、時代によって特徴がある。大航海時代は梅毒。コロンブス一行が西インド諸島から持ち帰ったという説が有力だ。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、まずスペインで流行し、スペイン人が頻繁に出入りしていたナポリに仏軍が進駐した後、欧州各国に拡散した。仏軍に含まれていたスペイン人傭兵の一部が梅毒に感染していたという説もある。いずれにしろ、「軍」が関係していた。その後、短期間のうちにインドからアジアに到達したとされる。
NHKの番組「DJ日本史」によると、日本では16世紀の終わり、豊臣秀吉による朝鮮侵略がきっかけとなって梅毒が国内に持ち込まれた。これも「軍」が関係している。加藤清正、浅野幸長、前田利長などは梅毒で亡くなったといわれている。
インドの風土病だったコレラ
コレラも軍隊が運んだといわれている。帝国主義の時代と言われる19世紀を代表する感染症だ。何度も流行が繰り返され、欧州の大都市、とりわけ大英帝国の首都ロンドンを揺るがした。
『コレラの世界史』(晶文社)によると、コレラはもともとインド風土病だった。ガンジス川流域では何度も発生していた。
英国のインド支配が強まっていた19世紀初頭、英軍がコレラ原生地のベンガル地方からインド内を長距離移動した。その途中のインド中央部で約1万人の部隊のうち約3000人がコレラで死んだ。帰国した英軍がコレラをロンドンにもたらしたという。
1840年にコルカタ(旧カルカッタ)で流行した時は、そこからアヘン戦争に派遣された英軍によって中国に運ばれた。54年のクリミア戦争では、仏は約3万人の軍隊を、コレラが流行していた北仏から送り出し、トルコやバルカン半島に広めた。明治期の日本では西南戦争の後、九州で流行していたコレラを帰還兵が全国にばらまき、日清戦争の後でもやはり帰還兵が大陸から持ち帰った。
コレラがインド発であることが明らかになると、英の責任を問う声も上がった。しかし、英は、なかなかインド起源説を認めなかったという。
ナポレオンはシラミに負けた
軍隊そのものが大感染症の打撃をこうむったこともある。
ナポレオンのロシア遠征では、60万人の遠征軍で少なくとも38万人が死んだ。一般的には「ロシアの冬」に敗れたということになっているが、『人類は「パンデミック」をどう生き延びたか』(青春文庫)によると、死者の3分の2が何らかの感染症。一番多かったのはシラミが媒介する「発疹チフス」だった。最強を誇っていたナポレオン軍は実はシラミに負けたということになる。
古代のローマ帝国も感染症に直撃された。『世界史を変えた13の病』(原書房)によると、強大な軍事力を背景に北はスコットランドから南はシリアまでを領地に繁栄をつづけたローマ帝国の衰退の一因には感染症(疫病)があったという。
皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121~180)のお抱え医師、ガレノスが当時蔓延した疫病について詳細な記録を残している。謎の疫病が165年から167年にかけてメソポタミアからローマに到達。ローマ軍の軍人たちも罹患し、軍がガタガタになった。それに乗じて一時はゲルマン人がローマにまで攻め込んできた。最終的には押し返したが、ローマ帝国の最強神話がぐらつくきっかけになった。
皇帝マルクス・アウレリウスもこの病気で死んだといわれている。『ローマ帝国衰亡史』で知られるギボンは、「古代世界はマルクス・アウレリウス統治時代に降りかかった疫病によって受けた打撃から二度と回復することはなかった」と書いているそうだ。
この疫病は、今では天然痘だったのではないかと見られている。