棋士の誕生日 杉本昌隆さんに弟子から四冠達成のプレゼント

建築予定地やご希望の地域の工務店へ一括無料資料請求

   週刊文春(12月9日号)の「師匠はつらいよ」で、将棋棋士の杉本昌隆さんが誕生日のあれこれを書いている。棋界では、その日が特別な意味を持つらしい。

   杉本八段...というより、将棋の歴史を日々塗り替えている藤井聡太竜王(四冠)の師匠として知られ、今作で32回を数える連載のタイトルもそこからきている。

   「さる十一月十三日は私と妻の誕生日だった...と書くと妙に思われるかも知れない。実は私、年齢こそ離れているものの妻と誕生日が同じなのだ。これの良いところは、妻の誕生日を決して忘れないことだ」。ちなみに杉本さんは53歳である。

「さて、私たち棋士にとって誕生日とはほろ苦く、ときに辛い記憶が蘇るものだ。それは修業時代、頭にのし掛かっていた『年齢制限』を思い出すからである」

   プロ棋士の養成機関である奨励会には、年齢に絡む厳密な退会ルールがある。原則、満21歳の誕生日までに初段、26歳までに四段(プロ入り)にならないと退会させられ、棋士への道は閉ざされてしまう。

「誕生日とは死刑宣告の日が少しずつ近づくも同じなのだ」

   有名棋士になるような逸材は、多くが年齢制限とは無縁に奨励会を駆け抜けていく。杉本さん自身、年齢制限の「本当の怖さ」を知らないまま21歳でプロになった。

「しかし、兄弟弟子や仲間がそれに阻まれて退会するのを見ると、誕生日に複雑な感情を抱かずにはおられないのだ」

   プロになれば、年に一度の呪縛から解放される。偶然のバースデー対局もあるが、むしろ「いい記念にするぞ」「勝って良い一年にしよう」と、発奮材料になるそうだ。杉本さんは弟子たちに「将来、君らも必ず誕生日を喜べるはずだ」と言い聞かせている。

  • 棋士は誕生日に「複雑な感情」を抱くことも
    棋士は誕生日に「複雑な感情」を抱くことも
  • 棋士は誕生日に「複雑な感情」を抱くことも

膨らむ妄想

   杉本さんは今年の誕生日を、山口県宇部市のホテルで迎える。藤井九段(その時点で王位、叡王、棋聖の三冠)が、タイトルの中でも名人と並ぶ別格、竜王位に王手をかけて対局していた。愛弟子は勝って新竜王に、最年少での四冠も達成した。

「師匠の誕生日に弟子が偉業達成。良い話ではないか。数日前から私はそのシチュエーションを想像し、ついにそれは現実となった...彼は記者会見でなんて言うのだろう。私は頬を緩めながらも妄想を膨らませる」
   〈師匠の誕生日なので気合が入りました〉...「いやいや、気を遣わなくても良いのだよ藤井君。いやあほんと、参ったなあ」...杉本さんはそんな場面を勝手に想像しながら、対局場の控室でテレビモニターを注視していた。

   ところが、記者から「きょうは師匠の誕生日でもありますが」と水を向けられた藤井四冠は、しばらく考え込んでから〈全く知りませんでした〉と明るく答えた。

「いや、知らなくても不思議はないが、"全く"まで付け加えなくても...」

   しかしそこは藤井さん。続けてこうコメントしたのである。

〈師匠にはお世話になりっぱなしなのでプレゼントができたのかなと思います〉
「エッセーのネタ提供と師匠へのリスペクト。私も下がったり上がったり忙しいが、とにかく素晴らしい自慢の弟子である」

あえて引き立て役に

   本作の表題は「最高の誕生日」。夫婦の誕生日がたまたま同じ、というノロケまじりの序盤から一転、厳しい生き残り競争を解説する中盤、さらには自慢の弟子が大一番を迎える終盤へ。攻めあり守りあり、最後のズッコケまでサービス精神あふれる随筆となっている。棋士には、書いても喋っても巧い人が多いが、杉本さんの文才もなかなかだ。

   年齢との競争を強いられる棋士の卵にとって、誕生日は「残り時間」を意識させられる節目。それを乗り越えてようやく「普通に」祝えるようになる。神経がヒリヒリするような現実があるからこそ、棋士の誕生日は味わい深いのだ。

   杉本さんにとって、特殊な状況で迎えた今年の誕生日は忘れられないものになった。しかし、それを漫然と綴るだけではトップ週刊誌の読み物には値しない。

   晴れの場で弟子がどう言及してくれるのか...そわそわと期待する己の姿を正直に、面白おかしく記す杉本さん。文中、あえて三枚目を演じることで、藤井さんの引き立て役に徹している。弟子は弟子で、師匠へのフォローを忘れない。

   その夜、杉本さんが初めて藤井さんを祝福したのは、ホテルの部屋を結ぶ内線電話だったという。人間的にもステキな師弟関係である。

*    *    *

   お陰様で「コラム遊牧民」も今作で連載200回。節目恒例の、引用元まとめを共有させてもらいます。まず作品を引用させていただいた筆者の性別ですが、男性58%に対し女性42%。引用回数が多いのは五木寛之さんの6回を筆頭に、鴻上尚史さん、平松洋子さん、ジェーン・スーさんが各5回、土屋賢二さん、小島慶子さん、鎌田實さん、松重豊さん、金田一秀穂さんが各4回など。掲載誌では週刊文春(17回)週刊朝日(13回)週刊新潮、サンデー毎日(各12回)週刊現代(9回)週刊ポスト、女性セブン(各7回)という順番です。 引き続きご愛読ください。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。

姉妹サイト