週刊現代(11月27日号)の「人生70点主義」で、梅沢富美男さんが小椋佳さんの名曲をめぐる「秘話」を明かしている。梅沢さんの代表曲『夢芝居』(1982年)の作者でもある。ただ、その小椋さんが登場するまでに行数の半分近くが費やされる。
「秋の夜長、我が家にはどこかはかなく、哀愁を帯びた音色が響いています」...25歳の次女が三味線を始め、夜ごと稽古に精を出しているそうだ。
「和楽器に興味を持ったのは、やはり血筋でしょうか。親の贔屓目かもしれませんが、なんとなく筋も良さそうです...そういや俺も、昔は楽器にハマった時期があったな」
梅沢さんが17歳かそこらというから、1960年代後半だろうか。日本でフォークブームが始まる時代である。
「私もギターを抱えてコード練習に明け暮れておりました...中学を出てすぐに梅沢劇団の一員になっていたため、一通り弾けるようになると、さっそくバックバンドのギタリストとして、歌謡ショーに駆り出されました...振り返ると赤面モノです」
そんな筆者は、70年代に入ったある日、ラジオから流れる男性ボーカルに胸を射抜かれたという。
「物悲しげにかき鳴らされるアルペジオ。そこに重なる憂いを帯びた歌声...♪少しは私に愛を下さい~ なんて、胸を締め付けられる歌だ」
デビュー間もない小椋さんの、『少しは私に愛を下さい』だった。
合併への私怨が...
「唐突に少女のもとを離れていってしまった男。捨てられた少女は、いまにも散りそうなバラの花に自らをたとえて、健気に愛を乞う...聴くたびに、夜な夜な枕を濡らす少女の面影がまぶたに浮かび、しみじみとした気持ちになるのです」
歌の仕事で初めて対面した小椋さんは、しかし歌のイメージとは別人だった。
「いかにも銀行員らしい生真面目な印象の人で、女遊びをしているような印象も受けません。なのに、なぜあれほど『女の情念』のこもった曲を書けたのか」
本人に問うと、意外な言葉が返ってきた。〈あの曲はねえ、俺の恨み節なんだよ〉
話は1971年、日本勧業銀行と第一銀行の大合併=第一勧業銀行(現みずほ銀行)の誕生にさかのぼる。東大を出て勧銀に勤めていた小椋さんは当時、社費で米国留学中。上層部の秘密交渉を若手が知るはずもなく、寝耳に水だった。
小椋さんは〈勧銀が好きで入ったのに、あんまりじゃない。だから、あの曲に会社への恨みつらみを込めてやったんだ〉と、あっけらかんと言い放ったそうだ。
「繊細な女心かと思いきや、まさか銀行員の私怨とは...頭の中の可憐な少女の面影が、ガラガラと崩れ去っていきます」
梅沢さんは気を取り直して「じゃあ、バラはどういう意味なんですか」と聞いた。
〈当時の勧銀のトレードマークがバラ...深い意味はなかったの〉
「以来、あの曲を聴くと、ケラケラと笑う小椋さんの顔ばかりが浮かぶのです。ああ、知りたくなかったぜ...私が深く後悔したことは、言うまでもありません」
自分を三枚目にして
♪一度も咲かずに散ってゆきそうな バラが鏡に映っているわ...
ふられた少女の繰り言だと思っていた歌詞が、実は合併劇に巻き込まれた若手行員の恨み節...という種明かし。しかし、それを知った上で聴き直すと、冷徹な経営戦略に翻弄されるサラリーマンの悲哀までが歌詞の行間に滲み、味わい深いものがある。
♪あなたの心の ほんの片隅に 私の名前を残して欲しいの...
いまでは「第一」「勧銀」とも、行名としては残っていない。
いたずら心あふれる名曲の誕生エピソード。作者がメディアで触れたせいか、今でこそ一部には知られた話らしい。とはいえ40年前に聞いた梅沢さんは驚いたに違いない。
上記エッセイのタイトルは「人間、聞かないほうがいいこともある」。この結論に導くために、前段でお嬢さんの三味線の話から自身のギターへとつなぎ、ラジオで知った小椋ワールドの感動体験に至る。そして思いもよらぬ結末。なかなか手の込んだ構成だ。手数をかけているので、当人の裏話を聞いた梅沢さんの落胆も共有できる。
自らの「がっかり」を強調して、つまり三枚目になることで読者を楽しませるサービス精神...生まれながらの役者らしいと感心した。
冨永 格