婦人公論(9月28日号)の特集「友達は歳をとるほどありがたい」に、俳人の宇多喜代子さんが老後の付き合いを論じたエッセイを寄せている
15年前、筆者70歳の頃に作った〈悪友の わけて恋しき 寒夜かな〉で始まる。
「いまだわが老いに切実なおもいを持っていなかった頃の句だ。ところが、八十五にもなり、本当に老いきってしまった今、悪友恋しきおもいはあの頃以上に募るのである」
宇多さんが言う悪友とは、「奇麗ごととは無縁の友だちども」のこと。居酒屋で俳句談議に興じる仲間たちである。そこそこの酒と、旬の一皿を楽しみながら。
「みな自分のことは棚にあげ、まずは世評上々の同輩の句をことごとく打ちのめす。俳句がわれらがイッパイのなによりの肴になるのだ」
叩かれながら俳句は磨かれる。酒席で話題にならぬような句はダメなのだという。
「わが悪友に共通しているのは俳句の目利きであるということ、しんとした冬夜に恋しくなるのは、そんな友だちである」
もちろん、俳句を介さない、たとえば学生時代からの付き合いもある。
「私が新作を出すたびに...この句はペケでしょう、と素面で突いてくる女友だちがいる...自信作に物言いをつけてくることが多く、それはないだろうと反発するのだが、しばらくすると彼女の言うことが腑に落ちるようになる」
自分が27番目?
俳壇以外の親友とどんな話をするかといえば、焼夷弾やスイトンの思い出であり、戦後の映画「青い山脈」であり、まだ12歳だった美空ひばりである。
「いずれも体験裡に生きている事々である...これらを語るときこそが、潮垂れて(しょぼくれて=冨永注)いた私が生き生きと蘇る『時間』なのだ」
老いて大事なのは、過ぎた時間の中に自分も確かに生きていたという「生存証明」であり、昔語りの時間でつながれる誰かがいるということだ、という。その誰かは俳友であろうがなかろうが、親友でも話し相手でも、老境においてかけがえのない存在となる。
「若い時には多様な価値観を持った友だちがいるのがいいが、老人にとってのよき友とは、衣食住の価値観に大きなズレのないのがいい。もはや主義主張の異なるところに順応するエネルギーがないのだ。お昼はお蕎麦でいいわね...でまとまるのがいい」
とはいえ、老いてますます元気という人ばかりではない。
〈わたしの一日は26人の老人のおむつを取り替えるところから始まります〉
若い女性介護職のそんな言葉を挟んで、宇多さんは結びにかかる。
「いつ自分が27番目のおむつの主になっても不思議ではないという老いのリアリズムを思った。そんな現実を思うにつけ...赤提灯で俳句談議に耽る友だち、わが句に鞭をくれる友だち、同時代を過ごしてきた学友、加えて長く句会吟行を続けてきた俳句仲間...こそがわが心身の賑わいであったのだと思い至るのである」