週刊現代(8月21-28日号)の「今日のミトロジー」で、中沢新一さんが五輪の新種目、スケートボードのポエジー(詩情)について論じている。スケボーでも、街にあるような坂や階段、手すりを配したコースで技を競う「ストリート」部門である。
大道芸人の基本技であるジャグリングの話から始まる。
「道具を普段の生活の場面と同じに使用したのでは、芸にならない...宙に投げ上げられたボールは、現実の中ではなんの役にも立たない存在へと変容する...このときボールは『無為』と『自由』の象徴となる」
筆者は続けて、スケボー(ストリート)の面白さは「ジャグリング芸の上下を反転させたような構造から生まれる」と説く。ん? どういうことだろう。
「市民生活にとって通行や安全のために、とても有用な機能を果たす手すりや階段が、むしろ邪魔な障害物として、無用を宣告される...スケーターたちはそれを用いて、自分自身をジャグリングのボールに変えて、宙を舞うのである」
本来の機能を奪われた手すりや階段はモノとなり、演者の引き立て役に回る。
「スケーターたちは...日常生活をなりたたせている有用な行動の『文法』を、ひっくりかえしてみせ...日常の外にある『美』を、短時間だがこの世に出現させようとするのである...こういう美には、しばしば『ポエジー』が宿ると言われてきた」
解説者にも資質
中沢さんによれば、詩の創作活動は、普通の言葉を日常的な環境から離脱させ、意味の浮遊状態を創ることに始まる。そのうえで音(おん)やリズムを頼りに「新しい言葉の組織体」を生み出す作業であると。
スケボーの選手たちも、日常世界の人工物から本来の用途を奪い取り、その浮遊空間に己の身体とボードを投げ込んで、つかの間の美を出現させる。そこにポエジーとの共通点がある...そんなロジックである。
「しかも、このスポーツが発生させているポエジーは、本質的に新しい」ともいう。
フィギュアスケートや新体操なども詩情を醸し出すが、それは古典的である。クラシック音楽のように、連続的に流れる滑らかなメロディーラインに従う。しかしスケボーのポエジーは逆に、滑らかな旋律を断ち切る突然のジャンプを基本とする。
「空中でのボードの回転なども突発的で、非連続な短いカットが集積されて、パフォーマンスが出来上がっている...このポエジーにもっとも近い言葉による詩といえば、現代ではおそらく『ヒップホップ』のそれということになろう」
中沢さんは、スケボーの試合を解説するには知識や経験に加え、新たなポエジーを語りうる語彙やリズムが必要だと書く。そして、NHKの実況で話題になった「ゴン攻め」「ビッタビタ」「鬼やばい」といった言葉たちについて、筆者は「このスポーツの『癖』のようなものを、うまくとらえている...解説者として登場させた人物の選択は、『スポーツの詩学』という観点から見ても、まったく正しいものだった」と評価する。
「どんなスポーツにもポエジーが宿っており...ふさわしい解説の詩法がある」
ゴン攻めの評論
東京五輪のスケボーでは日本勢が大いに活躍し、中沢さんがとり上げたストリート部門の男子で堀米雄斗(22)、女子では西矢椛(13)がそれぞれ金メダル。また、おわん型のコースで競うパーク部門でも、女子で四十住さくら(19)が金、開心那(12)が銀をとった。とりわけ十代の輝きは、新たなミトロジー(神話)の誕生を予感させた。
ボールやバトンが「ただのモノ」になって宙を舞うジャグリング芸と、本来の意味を失った階段や手すりの上で競技者が宙に浮くスケボー。人とモノの位置関係こそ反対だが、拍手喝采を含む全空間を演者が独占的に支配するところは同じである。
そしてスケボーと詩作は、モノや言葉を日常的、常識的な使い方から切り離したうえで自在に操る点で共通する、という「発見」もなかなか新鮮だ。
「美」や芸術性を重んじるスポーツに求められるのはクラシック音楽の連続性だが、スケボーは荒々しいジャンプで旋律をあえて断ち切り、非連続のカットを積み上げていく。当然、解説者にも新たな資質が求められる、というまとめも納得できる。
ストリート文化から生まれたスポーツを、思想家あるいは哲学者が論じるとこうなるという例。国語の試験問題にも使えそうな、巧みなアナロジー、明快な展開がいい。
周知のように、中沢さんのご専門は宗教である。現世のトピックを題材に、なかなかゴン攻めした評論だと思う。
冨永 格