日経ウーマン8月号の「妹たちへ」で、ジェーン・スーさんが「普通」からはみ出した半生を記している。各界の女性が3回連載で自分のキャリアを顧みる人気企画だ。
家族にも自分にも特別なことが何もない...そんな女性の嘆きに筆者は驚いたそうだ。普通で幸せそうなのにと。この国では平均的とか多数派の意味で使われる「普通」。そこに収まっていることは「何よりの安全だ」とジェーンさんは考えるからだ。
「私はずっとはみ出してきた。はみ出す自分を恥ずかしく思い、多数派に収まることを渇望しながら、同時に、それほど特別とは言えない自分をジメジメした気分で俯瞰する。正直に言えば、30代半ばまではそうだった」
「はみ出し」の内実といえば、幼少期からひときわ大柄だったことに始まり、逆上がりができない、女性誌にある髪型や服が似合わない、ぴったりの靴がない、歌えば声が大きい、面白いことは言えるがつまらない話を楽しそうに聞けない...などなど。
なかなか「普通」のカテゴリーに属せず、しかもそのはみ出し方といえば、密かに望む「特別」とはかけ離れていた。実はジェーンさん、「普通軍団の上位」に憧れていたのだ。
「普通のチェックボックスをすべて満たした上で、普通ヒエラルキーのトップ集団に属する。加えて、少しだけみんなとは違う特別なことをしている状態。ギョッとされない程度の個性。なんて浅ましい考え」
普通の上位とは何か。十人並みの肉体と平均以上の学歴を持ち、働きながら結婚と出産を終え、「聞くに堪えうる苦労話」をいくつか手に入れた後、世間が「女性ならでは」と納得する分野で起業するか、男性優位とされる業界で出世する...そんなところらしい。
「そういう人の話を聞いて、読んで、あなたはうっとりしたことがないだろうか」
米国で心地よく埋没
ジェーンさんもそんな偶像に取りつかれた。10代、20代、30代と、新たな偶像が次から次へと用意されていた。「横並びの女たちをチラチラ眺めている限り、私は自分に自信が持てなかった...はみ出す自分を憎々しく思いながら、はみ出しに自負もあった」
そんな筆者を少し変えたのは、大学時代(フェリス女学院在学中=冨永注)に経験した1年間の米国留学だという。
「アメリカで、私は生れて初めて埋没できた。どんなに自由に振る舞っても、はみ出すことがない...集団に埋没することが、こんな安心感をもたらすとは。私はこんなにも、普通になりたかったのか」
米国にも、かの国なりの普通があり理想像がある。だが容姿ひとつ取っても、画一的な日本に比べ普通や理想の幅が広かった。「今はもっと広くなっている」という。
帰国後、彼女は一層はみ出すようになったが、これはまずいと思い直す。
「私はまた、大きな体と自意識を、小さな日本サイズの箱に押し込める努力をした。箱はうんと小さいので、手足を折り曲げたり背中を丸めたりでぶざまになる。背中にびっしょり冷や汗をかきながら、精いっぱいニコニコする」
ジェーンさんは「私の振る舞いや言葉で、周囲の人間を傷つけてきただろうなとも思う。悪意はないが、私だって悪意のない振る舞いに散々傷ついてきたのだから、自分も同じことをしてきたに違いない」と省みる。
そして「特別なことが何もない」と吐露した冒頭の女性を思い出す。
「果たして、彼女は本当に『普通』だったのか。あんな狭い箱に、すべてが収まる人などいるのだろうか。私は彼女の何を知っていたのか」と。