東京五輪閉会式「コロナ禍」での演出 64年大会で始まった「平和の行進」あるか

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無力を感じた

   64年の東京五輪は「苦い過去」を背負っていた。40年にも「東京五輪」が予定されていたが、日中戦争が拡大し、「国家の一大事にスポーツなんかにうつつを抜かしている場合か」という軍部の返上論にスポーツ関係者は押し切られた。戦後最初の48年のロンドン五輪に、日本とドイツは参加を認められなかった。松澤は開催日に合わせて、神宮プールで日本選手権を開催し、400メートル自由形や1500メートル自由形で、古橋広之進らがロンドン五輪の優勝タイムを大幅に上回るタイムを出した。海外通信社が世界に打電し、五輪に参加できなかった日本は溜飲を下げた。

   水泳指導者だった松澤は戦争で多くの教え子を亡くした。「沖縄では慶応の児島、インパールでは立教の新井、硫黄島で亡くなったのは河石・・・私はそれを止めることもできず、ただただ無力さを感じた・・・これから水泳界を担う選手、自分の弟子たち、後輩がたくさん死んでいった」――後年、酒が深くなると、そう言って涙を流すことがあったという。

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