女性自身(7月27日-8月3日 合併号)の「武田砂鉄のテレビ磁石」で、武田さんが石原慎太郎氏(88)の「生きざま」を論じている。
〈自己犠牲、執念、友情、死に様、責任、自負、挫折、情熱、変節...男だけが理解し、共感し、歓び、笑い、泣くことのできる世界。そこには女には絶対にあり得ない何かがある。男が「男」である証とは。〉
「もちろん、自分の文章ではない。自分の主張でもない。そう思われたら超恥ずかしい...自分がもっとも忌み嫌う物言いだ。男である特権性に酔い、その特権性を確認するために女を低く見る...何かを乗り越えてきた雰囲気を醸し出す感じ。すべてがいただけない」
では冒頭のフレーズは何かといえば、石原氏が昨年刊行したエッセイ集『男の業の物語』(幻冬舎)の帯文だという。武田さんは同著の本文からも「イライラする一節」(男と女の生きざまの質的な違い)を引用したうえで、「なんでこんなに雑なのか。理由は明確で、雑なことを言っても、それを周囲が肯定してくれるのだ」と批判する。
「オレたちはすごいと言い張るために『女』との比較を繰り返すのだから、そんなことをせずに生きてきた『男』の自分は、こういう物書きに『男』を背負わせたくないとずっと思ってきた」
男らしさを保ちたがる
武田さんは、この社会は「公共空間で、自分のやり方をゆずらない男性」に向けて設計されていると嘆き、こう続ける。
「男女入り混じっている状態でも、そこにいる男性たちだけで話を続け、あたかも女性が存在していないかのように会話をする男性はいないだろうか。男性の政治家が、『女性が輝く社会』と連呼してきたが、そもそも、なぜ、男性によって、輝かされなければいけないのだろう」...答えは、前出の石原氏の著書にあるという。
「女」と比較することによって「男らしさ」を保っているのだと。
「オレたちはアイツらよりマシだぜ、という宣言って、『男らしい』のイメージからかけ離れると思うのだが...」
男の政治家たちが女性の政界進出をいかに食い止めてきたかを考えれば、石原氏の主張が男性社会で一定の共感を得てきたこともうなずける。
武田さんは、石原氏の著書からもう一節引く...〈人間には功利計算が付き物だが、男のそれは女とは違って大きなものを動かしかねない〉
「女性の社会進出、指導的立場に女性が就くことを怖がっている男性たちがいる。その多くが、自分の発言権を奪われるのではないかと怯えている人たちである...女と比較しないと男である自分を肯定できない、そんな男にはならないように気をつけたい」
石原家のDNA
実は武田さん、集英社から『マチズモを削り取れ』という新刊を出したばかり。本作でも「さて、露骨に宣伝を挟む」と前置きしつつ触れている。
スペイン語の「macho」から派生したマチズモ(machismo)は「男らしさの誇示」「男性優位主義」「マッチョな生きざま」などを指す。武田さんは「この社会で男性が優位でいられる構図や、それを守り、強制するための言動の総称」と定義し直し、日常におけるマチズモを批判的に追いかけている。例えば雑踏で、一人歩きの女性に狙いを定めて体当たりを繰り返す「ぶつかり男」などの話である。
日本におけるマチズモのイコンは石原氏であろう。作品世界だけでなく、作家として、また政治家としての氏の言動の多くは男目線「だけ」で組み立てられており、しばしば物議をかもしてきた。フェミニストの「天敵」といえる。
私はかつて、石原慎太郎氏を新聞コラムで採り上げるにあたり、自伝的な著作を何冊か拝読した。気になったのは、氏が多用する「石原家のDNA」という表現である。周知のように、4人のご子息は父親に似てそろって長身で、それぞれの道で活躍されている。だからあけすけにDNAを持ち出されると、「男系男子の正統性」を誇示されているかのようで、思わず引いてしまうのだ(※個人の感想です)。
もう30年以上前の話だが、取材で田園調布のお宅に何度かお邪魔したことがある。慎太郎さんはまだ50代半ば。プライベート、とりわけ一対一ではコワモテでもなく、人懐こくて話好きの大臣であった。
では私が女性記者だったらどうだったのか、これは確かめようもない。
冨永 格